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4月30日(水)
空が水っぽい、こんな日って、きらいじゃない。
風がつよくて、それはもう、つよくて、大雨も駆け足で過ぎた。
そして、4月も、過ぎるのだ。
けっきょく、何にも変わらない。
わたしは、わたしを生きるのみ。
あがいたって、なんだって、わたしはわたし以上になんてならない。
かっこつけても、背伸びしても、りこうぶってもムダだ。
しかし、かっこつけたくて、背伸びしたくて、りこうぶりたいこの気持ち、押し殺そうとしたり、みにくいんだって思いこみすぎると、
よくないことが起きる。
わたしはわたしを生きるのみ、どんな感情も無視できない。
自分に誠実であることのむずかしさはもともと知っていたつもりですが。
自分を裏切ることのほうがよっぽどむずかしいんだってことを、
この4月は、教えてくれたような気がするのです。
Go to Next!!
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4月29日(火)
しっかりしなくっちゃ、と思いつつ、
きょうもまた、
あたまが、からだが、トロトロと、かたつむりのようにしか動きませんでした。
困った娘です。
でも、こうしてるうちに、わたしは、わたし自身とどんどん親しくなってゆくような気がするの。
わたしが、わたしに対して、
聞いてもらいたいこと、感じていること、思っていること…、
そういうことって、本当は、もっともっとたくさんあるはずなんじゃないかって。
こうしているうちに、気づき始めてるの。
今まで、聞く耳持たなすぎだったのかもしれない。
甘やかさぬ程度に、やさしくしてあげなくちゃ。
適度にあいして、適度にムチ打つ。
上手にならなくちゃ。
わたし次第で、わたし自身は、わたしの最大の味方にも敵にもなるんだもの。
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4月28日(月)
今日は、なんだか、気力がなかった。
いろんなひとへの手紙、書きかけて止めちゃった。
本も途中で文字がぼやけて見えた。
町を歩く。
誰もかれもから身を避けたかった(誰もかれもがわたしなんて気にもしてないのに)。
うちに帰る。
お茶を飲んだ。舌がぴりっとした。
布団にもぐった。
あかるいうちからそんなことをしている心地よさなど微塵も感じられず、むしろ、あかるいうちからそんなことをしているうしろめたさのほうが、よっぽど強くって、いやあな感じだった。
それでも他にしたいことが思い浮かばず、だらりんと横たわりながらとろとろと夢を見た。
早くしなよ、早くしなよ、と急かされてるのに何を早くすればいいのかいまいちわからなく、歯がゆさだけが強調された、いやあな夢だった。
というわけで、今日は、日記に書けるようなことなど、なにひとつありゃしないような一日だったのです。
すんません。
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4月26日(土)
ぜんぶがぜんぶ、はじめから終わりまで完璧に仕立てあげようとするから不安になるのだ。
ねじを締めたり、緩めたり、完璧な状態に仕立て上げようとするから、緊張するのだ。
そもそも、最初っから、ねじなんかで構成されているわけじゃないもの。
わたしも、わたしの器である人生も。
もっと、もっと、大らかに束ねられているってなもんよ。
と思ったら、やさしい気持ちになった。
きょう、そして、きのう。
わたしを笑わせたり、ほっとさせたり、嬉しくさせてくれたすべてのひとたちに、感謝の気持ちをたっぷり、それからあたらしい友情の気持ちを込めて。
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4月25日(金)
チャップリンの「独裁者」を観た。
ビデオが巻き終わる。
夜も更けて、窓の外は雨。
次もまたチャップリンの別の映画を借りてしまいそうな予感がとってもするのだ。
それにしても、ひとって、本当に、本当に残酷なのだ。
憎しみなんてそもそも全然ないくせに、
大義名分があってそれからちょっとした弾みさえ加われば、
愕いてしまうほど簡単に、
とっても酷いことやってしまったりする。
身に覚えがあるよ。
愛することも、憎むことも、どちらも、むずかしそうですごく簡単なことなんだなあって思うよ。
人間は思う以上に単純なんだよ。
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4月24日(木) 小説家志望魂
最近、
短編小説の連作を書こうと試行錯誤している。
一遍、一遍が相互に関わりあっていて、一貫したものが横たわっているという、そういうものを書こうとしている。
小説とは何か、だとか、小説の存在意義だとか、そんなことばっかり考えて腰はずっと重たいまま、なんていう域からようやく脱したの。
案ずるより産むが易し、っていうじゃない。
あれこれ考えるのはやめてとにかく書こうって。
決めたの。
ところが、案ずるより産むが易い、なんて嘘だった。
産むのはぜんぜん易しくないもんだねえ。
大学の授業の準備が必要ない夜は毎晩、
あのことわざを疑ってるわ。
今夜なんて、まったく、危なかった。うきゃーーって、コンピューターで書いてるからよいものの、原稿用紙だったら、破りまくりビビデバビデブウだった。
わたしは、本当に、小説を書くのがへったくそだと、
思うことしきり。
だけど、やめられないんだ。
嘆かわしい。わたしは、それでもやっぱり、自分がちゃんとした小説を完成させることを、疑えないの。全然、疑えないの。
今に見てろよ。
絶対、書いてやる。
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4月24日(木)
わたしは、準備している。
きっと出会う、あたらしくて、いとおしいともだちが、わたしにすっと入りこむことができるように、と自分の中にぽっこりと手付かずの空間を。
きっと出会う。
全然、アテはないんだけどね。
そのひととの出会いのしゅんかんを、仲良くなってゆく感触を、過ごした時間を、
夜眠る前に思い出しながら知らず知らずのうちににっこりしてしまうような、
そういうともだちが、
きっと、できる。
今までに出会ってきた、たくさんの大切なともだちのように、大切に思えるともだちを。
一生はなんたって長いんだから!
その気になって、望みを叶えてゆきたいものです。
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4月23日(水)
水辺って、不安定で安心する。
海が見たいな。
ちかごろ、夕暮れどきの空がきれいなの。きょうなんて、雨上がりだから、よけいに、つやがあって、よかった。
空はいつも空だけれど、雲も光も、ひとときとして留まったりしないから、安心する。
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4月22日(火)
顔をあげたら、窓の向こうの、
とおくのほうが赤々としている。
朝焼けだ。
朝焼けは、好き。
ひとばんじゅう眠らないでいた身体が、特に瞳が、喜ぶのがその証拠。
朝焼けは、好き。
少なくとも今は。
好きと思える。
きょうの講義で、発表を担当していたからその準備のためにひとばんじゅう起きていた。
気がついたら、起きていたのだ。
こういうときの朝焼けは、怖くない。
コンピューターの中には、ひとばんかけて、こしらえた分だけのものが、堂々と胸を張っている。
だから怖くない、好き。
ひとばんじゅう、起きて、空っぽのまま朝焼けを感じる、あのしゅんかんに、どっと押し寄せる、恐怖やら焦燥やら罪悪感といったものの恐ろしさを、
知ってしまったら、ねえ。
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4月21日(月)
どうして、きらいなひとって、いるのだろう。
すきなひとしかいない。
そんなのはやっぱり夢物語なのね。
こどもじゃないんだから納得できる。
でもね、
すきなひとを、すきと、強く強く深く深く、思えば思うほど、
ほんのすこし、ほんのすこーし、ダメだわ、とか、苦手だわ、とか、きらいかもしれない…とか思ってしまったひとに対する、「きらい」の感情が、強く強くうごきはじめてしまうのは、
そういうふうに生まれついてしまった心のありようは、
ひどいと思う。
どうして、ひとをきらってしまうのだろう。
どうして、そういうひとにも、にっこり笑いかけてしまうのだろう。
どうしてそういうひとはわたしのようにわたしに笑ってくれないのだろう。
この心の醜い動きが、相手に、ぜんぶ透けて見えてるんじゃないかと、思ってしまうほどだ。
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4月19日(土) いい気持ち
線路沿いを歩く。
さわさわっとそよぐ木の葉っぱを見てたら、とおい記憶がかすかにくすぐったい。
やわらかい風、すこしの湿り気、
歩きながらとろりと眠たくなる。
なにもかもがくっきり明るいのに、眠たくなる。
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4月18日(金)
ほんのときたま、
自分のまわりだけ空気が薄くなったと錯覚することがある。
季節の変わり目の、とくに、春先の夜に多いのだけれど、
とつぜん、空気を吸っても吸っても吸い足りないような気がする。
窓を開け放したり、お水を飲んだり、横たわったり、わざとおおぶりに動いてみたり、いろいろするけれど、気が抜けたとたん、
足りない、と思い、深呼吸をずっと繰り返しつづけている。
わたしは息をしている、息をしている、何をしているの。
それでも、何かに没頭していたり、夜眠ってしまえば何もなしに次の朝目覚めるのだから、
実に妙なのだ。
そして、季節が落ち着くと、自然となおってしまうのだ。
それでも、夜、部屋でとつぜん、すうーっすうーっと、息を懸命に吸い続けてしまう。
そうしないと、何か、とてもくるしいのだ。
初めて自分がそうしていることに気づいたのが13歳になるかならぬかの春。
それ以来、1、2年に1度、そういうことになった。暑くなると、ぴたっと納まってなおった。
いつもかかっている内科のお医者さまに診てもらったのは、
既に20歳になっていた春先のことだった。
さすがに年も年なので、母が、おとなのぜんそくになったのではないかちゃんと診てもらいなさい、といったのだ。
お医者さまを前にしたとたん、わたしは、自分の症状をうまく説明する自信がほとんどないことに気がついた。
息が、息がしにくいんです…
口にしたとたん、わたしは、自分でもわざとらしいと思うほど、ほとんどそのしゅんかん、くるしい、と感じた。
そして、自分のまわりだけ、空気が薄くなった気がして、大きく深呼吸した。
お医者さまの目に映ったわたしは、わたしが自分で思う以上にわざとらしかったのかもしれない。
眠れないことはありますか? 途中で目が覚めることはありますか?
など2、3の質問をうけ、わたしは、すべてに、いいえ、という。そのあいだも、くるしくて、深呼吸を続ける。
するとお医者さまはわたしのおなかとせなかに聴診器をあて、
異常はないですよ、
という。そして、ぼうっとしたわたしに淡々とつづけた。
眠れなくなるわけではないし、人はほうっといたって息をするものなんですから、おそらく呼吸をするということを考えすぎてるんですね。
考えすぎ? わたしはだまる。息を吸うことに関して考えすぎ?
それからお医者さまはつづけた。
もしも本当に気になるなら、考えすぎないようにあたまをぼんやり休ませるお薬をあげますよ。
あたまを休ませる?
わたしは怖くなった。
いいです、もういいです、といって、何も処方してもらわずに病院をあとにした。いっしょに来ていた母はなんともなかったことに純粋にほっとしていた。
このお医者さまは、わたしだけでなく、妹も小さな頃からいつも診ている。ぜんそく持ちだった妹を、お医者さまはものすごく親身になっていつも丁寧に診察してくれた、そういう関係でもある。
大学受験の際、体調を崩した妹はこのお医者さまに診てもらい、そこでまた、お医者さまは親身になって丁寧に対応してくれた。
あの先生はほんとうにいい先生だよ。
母と妹がしみじみとそう語るとき、わたしはいつも、そっと哀しい。
あのとき、とても怖かったことは、母には、特にあの先生を心底信頼し頼っている妹には、とてもいえない。
それでも、先生のいうとおり、わたしは考えすぎているだけなのだ。
呼吸をすることについて。
考えすぎてる、と思ったとたん、始まってしまうのだ。
母と妹の思うとおり、
先生は、いいお医者さまなのだ。そのはずだ。
わたしはいったい何を思い込んでいるのかしら…。
今もまた、夜の部屋の中でひとり、淡く春めいてゆく空気を吸っている。これを書き終わったらきっと、吸い続ける。
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4月16日(水)
いつも指に、銀の輪っかをつけている。
はやい話が指輪だ。
だけども指輪というと照れくさいので、少々おどけた調子で輪っかというほうが落ち着く。
輪っかは、ほとんどわたしの身体の一部だった。
つるりと滑らかな一部だった。
ところが最近、
その小さな銀色の輪っかが、
わたしの一部でなくなったように振る舞いはじめた。
わたしは、落ち着かなくなった。
輪っかはわたしを重たい気持ちにさせた。
わたしは輪っかを外した。
日曜日の昼下がり、あかるい太陽のしたで。そっと外して、祖母のくれた小さくて光沢のある赤色の巾着袋の中にしまった。
輪っかのない日が数日つづき、わたしは、思う存分、軽さを味わった。
いいえ、味わおうとした。
今晩夜遅く、
わたしは、
祖母の巾着袋から数日振りに輪っかを取り出し、
それをやさしく握り締めた。
なつかしい、つるりと滑らかな感触を存分に味わいながら、
ほろりとした。
そのまま、輪っかを、いつもの位置に戻した。
輪っかはもう、わたしの一部でないように振舞うのをやめていた。
しとやかに、わたしの肌にぴいたりとはりついた。
わたしは、長い息を吐いた。
かさぶたがとれてゆくように、わたしは再び、手にした「幸福」の重みを思う。
わたしの「幸福」は、わたしを呑み込もうとするほど大きく、そして、おそろしい存在だったのかもしれない。そのおそろしさと、いつしかわたし、無我夢中でたたかっていた。
自分はこれほどの恩恵を受けいるに値しないと過剰に卑屈になりながら。
わたしは、
自分で自分、傷つけていた。
「幸福」がおそろしくて、「幸福」を失うことがおそろしくて、
傷をつけることで均衡をとろうなどと、たわけたことを無意識のうちにやろうとしていた。
銀の輪っかはそんなわたしの心に反応し、わたしに違和感を与えていたのだろう。
今夜、わたしは、おそろしさとたたかうことのおろかしさに気づいた。
何故、たたかおうとなんてしてたのか。
このおそろしさが生じた理由はわたしがおそれたからに他ならないのだ。
おそれることがこのおそろしさを肥大化させていただけだったのだ。
いまもまた、
わたしの指に馴染む銀色の輪っかが、
わたしに、手に入れた幸福の重みの心地よさを教えてくれている。
わたしは、もう、あまりこわがらない。贅沢なほど、素直でいたい。
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4月16日(水) ラブです。ガールフレンド。
やっと、ちゃんと、あたたかくなってきたね。
寄り道して帰りが遅くなったときも、もう、平気だよ。
うれしいなぁ。
わたしは喋らなくちゃいけないことを喋り忘れ、喋らなくてもいいことを喋りすぎるきらいがあるけれども、
そういうわたしをしっぽり受け入れてくれるともだちもいるんだってこと、実感するときの喜びったらないよ。
伝わってるかどうか、など、もう気にならなくなる。
伝わっているかどうか、なんて、わからなくてもいい。
受け入れてくれてる、と感じられれば、それでいい。
それほど、すくいとってくれている、という感触は(わたしにとって)必要不可欠なのかもしれない。
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4月15日(火)
わたしは本当に色々と持ちすぎる。背負っている鞄の中に、なんでもかんでも容れたくなる。
不安なんだよね。
何かが足りなかったらどうしようって。
そして多すぎるほうをいつも選んできた。
本当はわたし、
身ひとつで、どこへでも行ってしまえるひとに、
心底なりたいのだ。
余計なものばかり増えてゆき、大切なものはまぎれてゆく。
とりあえず、持ち運ぶ荷物を減らそうと思う。
春はとっくに始まっているのだ。
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4月14日(月)
とつぜんまた、冷えるのね。
桜も、満開のときを過ぎ、花冷えということばはなんだかふさわしくないし。
ところでわたしは、
「なんだか」、
だとか
「なんとなく」、
だとか、
「なんか」、
といった類のことばをよく使う。
いけない癖だとは思う。
きっと。
きっとほんとうは、もうすこし、じっくりと考えなくちゃいけない。
なんだかわからないような気がするけれど、ほんとうは、もうすこし、じっくりことばを組み立てる努力すれば、わかってくるかもしれないこともたくさんあるのだろう。
たとえこの世を成り立たせているものの七割以上が「わからないもの」だとしても。
だからこそ。
それに、
「なんだか」としかいえないものを大切にしたい気持ちをむげにしちゃアカンとも思うしね。
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4月13日(日)
代々木公園の草の上、
寝そべっていた。
ごつっとした木の根元に片手をときどき当てながら。
根元から倒された木っていうのは、大きければ大きいほど、いくらか残ってるうちの枝はもう根っこがないということになかなか気づかずぐんぐん樹液を吸い続けるんだって。
いじらしいのね。
それにしても、
わたしのからだじゅうがお日様を吸い込んでいるのを感じる。
お日様は、
お肌にとっては悪だというけれど。
わたしはひたすら、自分を、ほぐしたかったの。
だからとても無防備よ、ごろっと、ひなたを選んで横になったのだ。
自分をほぐしたかったの。
しみ・そばかすをひきかえにしてでもね。
でも結果はまあまあ。
思ったほどじゃないんだ。
あーあ。と思って起き上がり、
明治神宮の境内のほうをひょこひょこ歩いてゆくと、
杖をついたじいさまと、地味な色のワンピースを着たばあさまが、手をつなぎながら歩いている姿が見えた。
じいさまの背は天にむかってまっすぐ。ばあさまは、心持、じいさまのほうに寄りそうようにして。
あーあ。
わたしなんか、
まだまだペエペエだ。
じいさまとばあさまのあいだの長い長いラブストーリーを自分勝手に思い描いて、
自分勝手に羨ましがりながら、
ちょっとだけ涙ぐんだら、
根っこがなくても樹液を吸い続ける枝のことも、
いじらしいだけではないような、
そんな気がした。
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4月12日(土)
わたし嘘つけなくってさ、
冗談交じりではあれど、何度か、親しい友人にそう打ち明けたことがある。
そんなわたしは、
自分の手を汚したこともないのに、
汚す勇気もないのに、
勝手だなあ。
甘やかされてるのにも程がある。
振り返ってみると、
嘘つけなくてさ、
ということば自体も、
ほんとうは嘘だったんじゃないのかって。
ちょっとでも思ってしまうようになった今、
ほんとのところ、嘘もホントも何もないのかもしれんなあ、
などと思うようになった。
いまさら、遅いのかな。
まいにち、怖くてたまらないよ。
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4月11日(金)
この4月から妹がひとり暮らしを始めたもので、
さらには父が中国にいることのほうが多いので、
わたしと母は東京のこの家でほとんどふたり暮らしのようになった。
妹がいない分、母との関係が、より濃くなってゆくようだ。
母と近所の喫茶店でお茶したり、買い物に付き合ってみたりというこの生活は思いのほか、楽しい。
きょうはここ一週間ほどたて続けにあった新入生オリエンテーションやら、講義そのものもなかったので、久々にあわただしく過ごさないですんだ。
金曜日の余ったこの時間で、何かしようと思い、お料理をすることにした。
お恥ずかしながらわたし、お料理はほとんどしたことがない。
子供の頃からずっと母に頼りっぱなしだったのだ。
それでも19歳のとき初めて彼氏ができて、彼が望むからと、彼がひとりで暮らすアパートの狭いキッチンを借りて週末ごとに「しょうが焼き」やら「ビーフシチュー」だのを本を見ながら作ったこともある。
やさしい彼は何を作ったって文句ひとついわなかったが、中学生が調理実習するときのような騒々しさで試行錯誤しながら料理をしているガールフレンドの姿に、そうとう不安を覚えていたと思う。
肝心の料理はというと、「しょうが焼き」も「ビーフシチュー」も「トン汁」もなんとかまあまあのレベルまでいけたが、つまり、食べられる程度の状態にはたどり着くことができたが、
あるとき「トンカツ」を作ったら、まったく無残なことになった。
やさしい彼もこれにはさすがに苦笑し「食べられないよ」といった。
わたしときたらカツを揚げる、ということができなくて、豚肉に妙な粉の張り付いたものを出す始末だったのだ。
別にこの「トンカツ」がトラウマになったとかいうわけでもなかったが、外食のほうが簡単だということでわたしはだんだん料理から遠ざかった。彼も彼で、たぶん、半ば諦めたんだと思うけど、無理にそれを望まなくなった。
ときおり、
子供ができたら、将来結婚したら、どうか頼むよ、みたいなことをほのめかしつつ。
あれから3年ほど経ったのが今。
とおく京都で妹が日々自炊していることに感化されたのかどうか、わたしはまた料理をしたいなと思い始めた。
そういったら、彼も、母も、反対はしなかった。ほんとうに!?と驚きながらも、いいんじゃない、やってみなよ、といってくる。
そこでこの金曜日、彼をうちに招き、わたしの手料理をご馳走することに決めたのだ。
彼の仕事が終わってやってくる時間を見計らい、母が見守るというよりは監視する中、わたしは、にんにくをみじん切りした。ミニトマトのへたをとった。パスタをゆでた。ツナ缶を開けた。
3年前、彼のあの狭いキッチンでひとり豚肉を焼いていたときのことを思い出す。
楽しかった。
できあがった特製パスタは彼のことばを借りれば、
「食べたことのないような代物」
だった。
それは、美味しい、という意味ではなく、ほんとうに、「食べたことのないような代物」で、
「伝説のトンカツ」ほどではないにしろ、
なかなか困ったパスタだった。
それでも母と彼は、笑いながら、たのしそうに全部残さず食べてくれた。
まだまだこれからだよ。これからすこしずつ練習していけばいいんだよ。
なぐさめられながらわたしは、今過ごしているこの瞬間が、とおい未来には、くるおしいほど、いとおしくなつかしい光景になるんだろうな、と思った。
今度は、妹や父、それからだいじなともだちにも自信をもって振舞えるように。
そうなるためには練習しかないよね。するのかなあ、わたし。
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4月10日(木) 2
もらったチラシの裏に、
「宣伝活動ボランティア募集」の告知があった。
連絡先を見たら、
うちの大学の学生会館が記してあって「あんれまあ」と思った。
そうだよな。
校舎でもチラシに書いてあるのとおなじ事が書かれたたて看板があったっけなあ……。
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4月10日(木) 1
おととい、
ともだちにメールした。
「正直いって、あのせんそうが、日が経つにつれて、自分にとってどんどん遠いものというかリアリティーの実感できないものになってゆくことが恐ろしい…」
ともだちからの返事には、まったくそのとおりだ、と書いてある。
せんそうの報道と並行しながら「愛子さますくすく日記」だとかなんとかいうのをやっているのを見ていたら気分が悪くなった、とも書いてあった。
きのうは授業中に、外から、
「せんそうNO!」「せんそうNO!」「せんそう反対!」と繰り返し叫ぶ声が聞こえてきた。
あとわずかで泣き出しそうな叫び声は、聞いていてくたびれた。
ほんとうにくたびれた。
苛立たしいとすら思った。
彼らがわるいんじゃないと思う。
じゃあ、わたしがわるいのか。
きょうは、渋谷で、反戦デモ行進のチラシをもらった。2枚。
「おともだちに渡してください」といわれながら。
チラシをくれた男の子は、細身で、ふちナシメガネをかけていて、わたしとあんまり年が変わらなそうだった。
わたしはその子に思い切ってたずねればよかった。
あなたの中のせんそうは何か、
をたずねればよかった。
わたしにはわからない。
まったくわからない。
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4月9日(水)
わたしは小説を書こうとしている。
ところがわたしは、
小説を書くのがへたくそだ。
驚くほど、へたくそだ。
いつまでたっても、へたくそでへたくそで参ってしまう。
ときどき、ほんとうに、参ってしまう。
それでも、
これをやることのほかに、
わたしがわたし自身の身を立てる術はおそらくない。
愛とか平和とか真実とかの重要性を訴えるために書きたいんだ、などいってられるほどカッコよければいいのだけど。
いつか喰うために。
そのためにやろうとしている気持ちも、
ほんとうはとても大きいのだ。
へたくそ。
でもやりたい。
やらなくちゃ。
なんて思っている。
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4月8日(火)
きょうみたいな日は好きだ。
空気がぜんぶ、みずみずしい。そして風は、とおい島のように、熱っぽい。
ビニール傘がすっ飛ばされてしまいそうな雨風の中、授業に行ってはみたものの、教授が来なくて、休講になってしまった。
みんながっくりしながら帰り支度。それでだれかがいうの。
一杯引っ掛けて行きたい気分ですねぇ。
数分後、わたしたちは、校舎のすぐ近くの居酒屋さんにいた。
出会ったばかりの同級生はみんな、気の良いすてきなひとたちで、どうしてそう思ったかというと、どのひとも笑い顔と笑い声がとてものびやかだったため。
そしてみんな、実においしそうにビールを飲むのだ。
お酒はからきし飲めないはずのわたしが、ビールに、ちょっと恋をしてしまう。そういう雰囲気。
そう。
ビールが美味しいって、わたしはほとんど初めて感じてしまった。
ビールだけじゃない。
食べ物もみんな美味しかった。
「美味しい」と感じるときの、のびやかな感動に、今夜は酔っ払ってしまったの。
これから始まる日々を、大切に。
改めて思いました。
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4月7日(月) 桜に限った話しではないけれど。
それにしても桜って呆けさせる。
人を、ただただ、呆けさせる威力を備えてる。
そうとしか言えない。
げんにきょうのわたしは、四ツ谷の土手沿いの桜並木道を歩きながら、何度かむせてしまった。
桜が太古から繰り返し繰り返し絶えることなく春になるたびに花開いてきたかと思うと。
むせてしまった。
そこを歩くときの、
2人連れ以上のすべてのひとたちは、必ず連れにむかって、桜への賛歌をぽとりとこぼしてしまうのを、わたしは聞いていて、
彼らの表情がまぶしいものを見つめるときのものに代わってゆくのを見ていて、
そういうのを全部差し引いても、
わたしは目の前の桜が生々しく自分の心を揺さぶっているのを認めざるを得なかった。
そして、桜を見ていると、
輪廻転生の物語を見ているみたいな気持ちになることに気がついた。
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4月6日(日) シネマな日曜
線路沿いをゆっくり歩くときって、なぜかしみじみする。歩きながら、なんだか、横長のフィルムにそっとおさまっているような気持ちになる。列車が横切るときの数秒間を含んだら更に。
そんな道沿いで出会ったのが、ボクサーみたいな動きをするミケ猫だ。
うつくしい毛並み、りりしい顔つき。
猫と出会えばすぐさま夢中になってしまう彼が、それこそ、すぐさま夢中になってミケと遊び始めてしまう。
とろりとした日曜日の路上にて。
ミケと遊ぶ彼を余所にわたしは夕暮れ間近の空を眺める。
まだ白い、とても細い月が浮かんでいた。
ミケとサヨナラした数分後、
線路沿いにほっそりとのびる狭い通路で、小さな小さなゲームセンターを発見。その小ささといったらたいしたもので、ゲームセンターというよりは駄菓子屋さんっぽい。
小さいゲームセンターの中は、こんもりあったかかった。
ガスストーブを使ってる部屋の匂いがした。
そして何故だかジョンのイマジンが流れてるの。
天井は高くて吹きさらし。
棚には空のダンボールが並べてある
肝心のゲームはといえば、古びた喫茶店にあるような卓上ゲーム機が4台、ところ狭しと置かれている。そのうちの1台の前に、この店(?)の主人と思われるおっちゃんが座り、画面を見れば麻雀ゲーム。
おっちゃんは入ってきたわたしたちをまったく気にせず、画面を見つめ続ける。
卓上ゲームのほかには、
ピンポン球を穴に落とさないように弾いて遊ぶ「新幹線ゲーム」は一回10円也。「あっちむいてホイゲーム」なんていう猪八戒みたいなブタさんとあっちむいてホイをして勝てばメダルが手に入るゲームもある。こちらも10円也。
「なんかここいいなぁ!」
そういうと彼は、目をキラキラさせながら、両替両替、といって百円玉を十円玉に変えた。
「新幹線」や「ブタとの対戦」を楽しむ彼の横顔はちびっこみたい。わたしはといえばゲームはへたくそなので見るに限ると思っている。
そのうち、ジョンの歌声がやみ、彼がいう。なにか、かけようか。
そこで初めてわたしは、ここに、ジュークボックスがあるのを知る。おっちゃんの座っている真横に。長方形の、これまた、旧式であろうと思われるジュークボックス。
小銭なくなっちゃった。
狭い空間で彼が立ち上がる。
両替機は新五百円玉を受け付けない。彼がおっちゃんに声をかける。
すみません、
この狭い空間でだからだろうか。おっちゃんのどことなく丸みを帯びたからだがやけに大柄に見える。そしてそのからだが、こちらを振り向く。
はいはい、
と少々掠れた声は、わたしたちを煙たがるふうではもちろんなくて、熱烈に歓迎するふうでもない。ごくごく自然な、こちらがここにいることを不自由で落ち着かないと思わずにすむような調子だった。
両替いいですか?
彼が新しい500円玉を見せると、
おっちゃんはポケットから小さな巾着袋を取り出し、そこから、古い500円玉をちょっと苦労しながら探り出した。
これなら大丈夫ですよ。
ありがとうございます。ここ、いいですねえ。いつごろからやってるんですか?
うーん、もう、15,6年くらい前からかなぁ?
へえ、いいですねえ。
どこにもねえ、宣伝なんかはしてないんですけどねえ。
へえ、そうなんですか。ま、おじゃましてすみませんでした。
いえいえ!
はたして彼は新しい100円玉と10円玉をたくさん手に入れた。
そしてわたしの手のひらに50円玉をのせる。
このお道具箱を大きくしたようなジュークボックスでは、
50円で2曲、好きな歌を選べるのだ。
彼がゲームを続ける。
わたしはおっちゃんにすこしあいだを開けてもらってジュークボックスの前に立つ。
今流行りの曲なんて一曲もない。
今流行りの曲なんて聴きたくもない。
わたしはビートルズ「ユウ・ノウ・マイ・ネーム」と、それから、「5番街のマリー」を選んだ。
がたごとっと音を立てながら、ジュークボックスは生き始める。
「ユウ・ノウ・マイ・ネーム」が流れ出し、気がつくと、天井に近いほうの窓から、つるりと水色の空が見えた。西のほうはきっともう赤らんでいる。
小さなゲームセンターの中で。
自分は、もう、まんまセピア色に染まってしまったような気分でいた。回り続けるフィルムは完全にセピア色だ。
「5番街のマリー」が流れ出し、その気分はいっそう募る。
これ、寺山が書いたの?
ゲームする手を動かしたまま彼がたずねる。
わたしはセピアなまま応える。
それは毛皮のマリーだよ。
あ、そうだった。
なんということだろう。
懐かしさに胸が痛い。
これはわたしの記憶なの?
わたしが生きてない時代の、わたしの生きてない空間の再現の、真っ只中にいるはずなのに。
昭和って…
懐かしいものなの?
それとも遠いものはみんな、
懐かしいの?
「5番街のマリー」が終わってもなんとなくぼんやりしていた。彼は、卓上ゲームで、なんとかラウンドを戦っていて、新記録の更新中だという。
するとおっちゃんがもぞりと立ち上がり、ジュークボックスをいじりはじめる。
しばらくして、「なごり雪」がかかった。
終わると「いい日旅立ち」が続いた。
彼が卓上ゲーム機の画面上のハイスコアプレイヤーに自分とわたしの苗字を並べて打ち込む。
(わたしは何にもしてないのに、このひとはこういうところでわたしを仲間に入れてくれるのだ)。
百恵ちゃんの歌が終わって、わたしたちは立ち上がる。
そしておっちゃんに、お礼をいってお辞儀した。
おっちゃんはやっぱりどことなく丸みがかった大柄なからだを振り向かせ、
またぜひきてくださいよ、といった。
熱烈に待ち構えるふうでもなく、とりあえずいっとくかというふうでもなく、わたしたちが、ちぢこまないでいられるような自然さで。
線路沿いを歩きながら、彼がいった。あ、月だ。白くて細いや。
うん。
わたしは応えた。
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4月5日(土)
東京地方に大雨が降って、
風は冷たくて、
出かけるのをやめようかどうしようか、
しようとしていたことのあれこれを、
やろうかどうしようか、
やりかけたり、やっぱりやめてみたり、
なんてことを延々と続け、
日が暮れた頃に、
ああきょうはなんだか何もしなかったな、なんて気づき、
それなら最初から何もしないと決めて過ごせばよかったな、
なんて思ったり、
テレビをつけたら、こわいニュースと軽やかな実に軽やかなそれこそ軽薄とでもいうべきのような番組が入り乱れていて、
なんだか頭まで曇ってしまった土曜日なのだ。
明日は晴れるんだって。
良かった。
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4月4日(金)
午前中、
ピーナッツバターを塗ったパンを食べたあと、いつもよりも比較的ゆっくりと新聞を読んだ。
しかしまあ。
胸のきゅうきゅうするようなニュースばかりで。
ひととおり目を通したあと、ずっしり重い気分にとらわれた。
それでもまあ。
万人が万人に対して狼だった頃からしてみたら、
いまわたしがいるこの場所は、
安全すぎるほど安全なんだろうね。
甘やかされすぎなのだろうか。
何が異常なのかもはやわかんないや。その内容も、それの定義の方法も。
ただ自分の愛するひとたちが、なんらかによって傷つけられるかもしれないということの恐怖だけは、
その恐怖だけはもう、
それだけはほんとにもう、
いっそ感じないからだにしてもらいたいくらいで、
そう思っている自分が、
恥ずかしいくらいで、
「怖い」という感情は、
痛々しいまでに
ちっぽけで残酷な自分を見せ付けられてしまう引き金となるものだなあと思う。
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4月3日(木)
大学院の新入生歓迎会で、
たくさんのひとたちと会った。
わたしよりも、
すこうしばかり年上の、
働いてたことのあるひとが、
たくさんいて、
そのひとたちといたら、
そのひとたちからあふれ出す生活感覚・現実感覚に裏打ちされた好奇心の波動を、
強烈に受け取ってしまった。
みんな、いい顔してるの。
あかるくて、突き抜けてゆこうとする。
そういう顔。
拡がる、深まる。
わたしは最近、ずっと張り詰めていたけど、
ぱちんと弾けて、
いっぱい笑った。
甘っちょろいことはもうおしまいだ。
いよいよ、始まる。
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4月2日(水)
まったくきょうってやつは、
議論の余地もないほどの、
花冷えな一日。
桜の花びらが、ふるふると寒さに耐えていた。
えらいわ。
こんな目に遭うかもしれないのに(実際遭っているのに)、
毎年毎年、
咲くことをあきらめない「彼女」たちって。
毎年あたらしいのに、毎年なつかしい。
そしてわたしはきょう、あがた森魚の「永遠の遠国(20世紀完結編)」を購入したのです。
あたまんなかがじょじょに染まってゆくのです。
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4月1日(火) ともだちのこと。
17歳のとき、教室の窓から桜をながめて思った。
来年の今頃、わたしはいったいどこにいるのでしょう。
きょうは、
あれから5度目の桜を見ていた。
まだ若干、ひいやりとした風。
ほかほかのお日様の光。
りょうほうに迎えられながら、
桜の花びらは、ただただ、あった。
ああ。それにしても、
きょうから4月なのです。
きょうから新生活が本格的に回転し始めたひとも多いみたい。
帰り道、スーツを着たおとこのこやおんなのこをたくさん見かけました。
さすがにひとりひとりの表情はぜんぶ見ることができなかったけど、彼らが通り抜けていったあとは、なんだかとても、あかるくて力に溢れたものが過ぎ去ったあとのような、そんな気持ちになりました。
この4月から働き始めるともだちみんなのことが、次から次へと思い浮かんで、みんなが、あんなふうにあかるく力に溢れているといいな、と思いました。
ともだちのことを思うと、
あかるくあることを忘れたくないと思うのです。
ノー・フレンズ、ノー・ライフ。
これから出会うすべてのひとたちから学んでゆきたいと思うのです。
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