ON日記9月 

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9月30日(日)

空の遠さは限りない。
それは秋になると沁みてくる感覚。

冷ための風を、お日様がほんわりと暖める。

わたしは、金木犀のかおりに、酔っ払っている。

木々から漏れる光、空の青い光沢。

いつまでもいつまでも歩き続けていたいと思わずにはいられない条件がみんな揃ってた。

なんとなく食べたクレープが、
今まで食べたどのクレープよりも美味しかったから、

ほころんでしまったよ、顔。

人生、っていい。
ほんとうに、いい。

あいしてます。

 

9月29日(月)

海の底や、宇宙空間、
あおいあおい青さに充ちているような気がして、

夢かうつつか、

わたしは呼吸のリズムで
揺れていた。
ベッドの中。午前2時。

隣で眠るあいするひとの親指を、なんとはなしに、つかんでみる。

わたしだけじゃない、わたしたちは、
たゆたいながら、
たまゆらの永遠を味わっていた。

幸福な夜。

 

 

9月27日(土)

まだ、6時をまわらない。

わたしは、からだを丸ごと、
朝の中に放り込んだ。

朝は、端のほうから冴え冴えと明るんでゆく。

それは、わたしの指先をつたう。
からだに広がる。
髪の毛の先っぽまで、さわさわと、沁み渡ってゆく。

 

朝だ、朝だ。

眠っていないので、目に映るものは皆、なんとなく、霞んで見えるのに、
わたしは、わたしのからだが、ここにあることを、
とても鮮明に感じている。

これだ、これだ。
これが、欲しかったのだ。

 

9月26日(金) 

今夜、

内幸町(うちさいわいちょう)という、響きからしてちょっといい感じの町の一角にて、

メキシコマリンバの夕べ

が開催されました。
千代田区主催、メキシコ大使館後援、だそうで。

(ちなみにマリンバとは広辞苑によると、「打楽器の一種。シロフォン(木琴)に似てそれより1オクターブ低く共鳴管がある」。)

メキシコ、モロレス州大学のマリンバチーム・「PALENQUE」(パレンケ)の演奏を聴いてワクワクどきどき胸をときめかそうってのが、
「夕べ」の目的です。

というか、参加したわたしが、まんまとワクワクどきどき胸をときめかせてしまったって話なんだけど。

いやあ。この「PALENQUE」(パレンケ)ってのが、また、ステキなの。

太っちょで陽気なバリオスは曲と曲のあいまごとにハンドタオルで汗を拭う姿が愛らしく、
アヨンは渋くて一見マジメそうだけどよくよく見ると演奏スタイルの端々に茶目っ気があって、
からだの大きいイザギレはリズムに合わせて優雅に揺れながらときおりこれまた優雅な微笑をする二枚目。
ゴンザレスは実はイザギレよりも身長が大きいのだけど細身なうえにマシューカットなのですごく若く見える。シャイな少年って感じ。

そんな四人が、並んで立って、
楽しそう!!!に叩きまくるのよ、マリンバを。

太陽の温もりをうけて育った木肌の音を、鳴らして、
“世界”をつくるのよ。

そこにいながら、両手を叩きながら、ブラボーと叫ぶほかのお客さんにまじりながら、
幸福感がからだの中でころころ揺れているのを感じました。

ああ。
いいなあ、こういうのって。

わたしの住んでいるところから、ずーっとずーっと遠いところで、
こういう音が、あたりまえのように、響いているんだなあ。

お日様は、
いろんなものを育てあげているんだなあ。

すごいなあ…。

なんて思わせてくれたメキシコの夕べの思い出にキスがしたい、そんな気分がいまだにつづく夜なのです。

 

9月26日(金) 

北海道で、おおきめの地震があったというニュースを見て、

どきどきしてます。

はやくいろんなことが、なんとか、落ち着きますように。

 

9月25日(木) 

学校が本格的に始まると、
身も心も脳みそも、
リズミカルに踊りだす。

昔描いた夢の、
輪郭線くらいにはたどり着けたかなあなんて思いながら。

この世にて、23度目の秋。

そうだ。

夢は、
あいもかわらず、

わたしを大きなところへ、
いざなってくれるの。

浮きつ、沈みつ、

続けてゆくの。

 

9月24日(水) 

どこにいても、何をしていても、誰ともいなくても、さみしくないようにするには、

自分なんて、この世にとっての異物でしかないのかもしれない…

などという、
大それた、あまりにも大それた夢を見てはいけない。

この世は、
思うほど“かたくな”じゃない。
望めば、いつだって溶け込むことができる。
繋がりは保てる。

笑っていられる。

さみしいはずが、あるものか。

 

9月23日(火) 祝日

つるつるだった空は、
昼ごろには雲に覆われていた。


あかるい白色の雲。

ひいやりとした風が肌を撫でると、
わたしの皮膚は、秋の感触を、祝うように味わっていた。

思った以上にわたしは、秋を、うれしく思っているようだ。

 

9月22日(月) 

きょうもまた、
端っこから空が明るんでゆく。

空は、端っこからしか、明るまない。

どこにいたってそうなのだ。

朝めいてゆく空がおごそかなのは、そのためにちがいない。

 

9月21日(日) 

台風のとき家の中にいると、
水槽の中にいるみたいなんだ。

目を閉じちゃえば雨音はますます冴えてくる。

ほんとうは宿題(羊と基督と村上某)を片付けなくちゃならないのに、
わたしはすぐに布団のなかにもぐりこもうとする、
10分だけ、10分だけって。

ああ。

ほっぺにできたにきび(もうハタチを越えてるから吹き出物といったほうがいいのかしら?)、

はやくなおらないかなあ。


でも、こんなんだけど、
このごろ、たくさんのひとと会えて、
みんなステキで、


宿題はなかなか終わらないけど、
けっこうしあわせ。

 

9月20日(土) 

夏の端っこでゆるゆると遊んでいたはずなのに、
一晩あけたとたん、
寒いのだ。

度肝を抜かれた。

テーブルにうっつぷして浅い夢の中に、ゆるゆると浸っていたら、
突然の振動!

ほんとにほんとに怖かった。

あがいたってしかたないなと思うほど、大自然は、今でもほんとうに気まぐれなのだと思った。

 

9月19日(金) 

空の広さに、胸がいっぱいになるの。

最近、光りの源について考えるのがすきだ。

実際に実在している太陽の位置を気にしてみることと、
もっとこう比喩的に、というか精神的に今このしゅんかんのわたしの気持ちをあたためてくれてるものはなんだろう、とかいうことの、
両方を。

どちらも大事にしたいなあ! と。


そうだ。

誰しもが皆、例外なく、この天の下で光りを浴びてるんだわ、
なんて。

広々した気持ちに夢中なのだ。

 

9月18日(木) 

ともだちと夜ゴハン。

涼風が吹く中、
ともだちの案内でお店までの短い道のりをゆく。

空かしたおなかは期待感に満ちている。
からっぽゆえに満ちている。

ああ。

それにしても、
タイ料理屋さんのゴハンって、
呑むもの、食べるもの、どれもが、
どことなくノスタルジックなのだ、何故だろう。

知らずし知らずのうちに、
しあわせだった。

こんなふうに呑んで食べてとろけて死ねたらなあ。

 

9月17日(水) 

大学院生になって良かったなぁ、と思うのは、
たとえば
「羊」について、
丸一日かけて延々考え込んでいたって、
これは「勉強」なんだと胸を張っていえるところだ。

今週のわたしは、
「羊と基督教と村上春樹」
について論じるための準備をしている。

キリスト教にも村上春樹にも、
さして思い入れがない分、

気楽にやれるのも素晴らしい。

よく晴れた夏から秋にうつろう季節の午後、
福音書の読み解き方だとか、
何人もの村上春樹研究者が思いいれたっぷりに書いたコラムなどなどを、
ぱらぱらめくってゆく。

退屈なんかするものか。
たとえ本の内容が退屈だとしても、
退屈なんかはしない。

だってわたしは、
こうしてるだけでいっぱしの研究者にでもなったような気分を楽しめる。

さらには、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなんか聴いてるものだから、
どんどん生意気になってゆく。

なんだか、もののわかった人になったような、そんな気分に浸っているのだ。

ムードとイメージを駆使しましょう。


軽薄に時を潰すには、これに限る。

 

9月16日(火) 

大学図書館の、本箱と本箱のあいだで、
そうだ、昼間のわたしは、ここにいるべきなんだ、と思った。

それから、これからのことを思い、
ちょっとだけ息がくるしい。

夏休みが明けたばかりの大学は、まだ、しずかだった。

日が暮れたあとは気持ちのよい風が吹いて、夏はいよいよ行ってしまう。

気難しい秋がやってくる。

そして今夜も、
ルー・リードの「ワイルドサイドを歩け」を聴きまくりながら、

わたしの夜は深まってゆく。

わたしは何歳になる?
何になってゆく?

 

9月15日(月) 

わたしは、
昼と夜を、自分流に遣いこなしているつもりだった。

ほんとうは、
昼と夜の両方に、
呑みこまれかかっているというのに。

自分にとって最も目の冴えてる時間はいつなのか、見当がつかなくなって、

もうどのくらい経つんだろう。

昼でも夜でもない、
白っぽい光りが冴え渡るあのしゅんかん、朝というしゅんかんだけが、


隙間のようなしゅんかんだけが、

わたしを乱さないでいてくれる。

“きょう”もまた、
終わりながら始まってゆくのだ。
止められっこないのだ。

 

9月14日(日) 

徹夜明けの恋人は眠る。
すやとも音を立てずに、
赤ん坊のごとく安らかな顔で。

昼間に眠りすぎたわたしは、
その部屋にある本で自分にふさわしそうなものを片っ端から漁り、次から次へと活字を追ってみる。

そうしていることの意味なんか、ない。

両手ですくっても、指と指の隙間からこぼれおちる水みたいにね。

でもわたしは意味に濡れてるような気になって、
何もしていないよりはマシかと思ってる。

恋人が寝返りを打つ。
わたしは鼻をかむ。

この部屋からは月が見当たらない。

 

9月13日(土) 

風が強いようだ。こんもりと葉をたたえた木がゆらゆら揺れている。

昨夜は、おかしかった。

持っているものを一挙に失うことを想像して、
おかしくなりかけた。

生きるということが死ぬことの準備なら、わたしはまだ、生きてはいないのだ。

 

9月12日(金) 

そう(・・)しているうちに、
わたしをとりまく世界の輪郭が、
濡れながら拡がってゆくように思えた。

窓の外には、
まんまるお月さん。

からだじゅう、つまり、
あたまのてっぺんから足の指の先までの全部で、
膨らんでゆく世界の鼓動を味わったあとは、
泣き笑いがしたくなるんだね。

 

9月10日(水)

きょうは、
ほたるさんがうちに遊びに来てくれた。


ほたるさんはいつもわたしに中国語を教えてくれる台湾人のおともだちで、わたしにはおねえさんみたいなひとだ。

(とうぜん)台湾人であるうちおかあさんと、ほたるさんと、わたしの3人で、きょうはたくさんお喋りして、たくさん笑って、ほんとうに素敵な午後だった。

ほたるさんと別れて、妹も帰ってきて、夜は、久しぶりに日本にやってきた従兄弟のおにいちゃんたちと、てんぷらを食べた。

中国語をいっぱい聞いたのと比例してきょうって一日は、ほんとうにしあわせなムードに充ちていたように思う。

 

9月9日(火)

今夜は、
ひょんな弾みで、
お久しぶりの友だちと会うことになった。

それはわたしが昼下がりに、おなかいっぱい食べてほんわりとした眠気とたわむれながら中国語の問題集を広げていたとき。

その時間にはめったに鳴ることのないケータイの着信音が、鳴る。

「いきなりなんだけど、今夜、××ちゃんと飲むんだ。もしよかったらいっしょにどうかい?」

メールを送ってくれた子も、××ちゃんも、ここのところずっと会いたいねえ、なんて言い合ってはいたものの、みんなの予定がかみ合わなくて、会えずじまいだった仲間のうちのふたりだ。

わたしは、なんとなく、どきどきしながら、
「喜んで」
と打ち、それから待ち合わせの日時と場所を乞いた。

そしてわたしはきょう、
懐かしい彼女たちと再会。
(ついでに彼女たちといたころの、そう、ほとんど“身の程知らず”だったころの懐かしい自分とも再会)。

ゴハンを食べて、お酒を飲んで、歌をうたって、実に楽しい夜を満喫した。今はすっかりラブ、マイガールフレンズ!っていう気持ちだ。

しかしあれだね。
前々からの約束がとつぜん水の泡となったときって、朝目が覚めたときに思い描いていたような一日とはちがう一日をなんとかやり過ごそうとするじゃない。どこかぽっかりと寂しいきもちを持て余して。
それの反対がきょうみたいな日なのね。突如としてあらわれた楽しい約束が電光石火でわたしをわくわくさせた。
こういう日もあるから、なかなかこの日常ってやつは一筋縄じゃいかないんだな。

 

9月8日(月)

“身の程知らず”は恥だと思ってた。“ふてぶてしさ”もまた然り。

だけどもっといけないのは、
“卑屈なこと”だ。

わたしはすこし、卑屈すぎたようだ。
このままじゃ、
あるものもなくなってしまう。

たとえほんの一握りではあろうと、
才能は才能だ。

殺してたまるか。

 

 

9月7日(日)

今週も、
思い出すだけでニコニコしちゃえるような素晴らしい瞬間が、
いっぱいありました。

それらを全部かき集めて、ここに並べて、片手で頬杖ついて、空いたほうの手で、じゅんじゅんに撫でていけば、

幸福感とやらは永遠に持続してゆく、

わけというのでもないのだから、

まったく。

わたしは、
過去を反芻することだけで幸福感をじゅうぶんに堪能できるほど、
まだ年齢をとっていないようです。

もっともっと、
人生を経験したいようなのです。

 

9月5日(金)

だんだんとあけゆく空を、ずうっと見ていたら、

金色まじりの朝日が、
この部屋ごと、
わたしを
染めてゆき、

ああ、またしても、

夜か朝かわかんないようなじかんの、
夏か秋かわかんないような空気の肌触りに、

救われてしまった。


がんばろう。

 

9月4日(木)

きめこまやかな肌に光り輝く漆黒の長い髪を持つ美しい中国娘に、
本気で恋をした白人男の苦悩とはどんなものなのだろう。

だとか。

暁に背を向けて腹をきろうと覚悟したしゅんかんの侍のおしりに針を突き刺したらどんな反応をするのだろう。


だとか。

どうひっくりかえってみたところ体験しようのないことを体験したと仮定して、
考えている。

果てなく、考えてる。

それはもう、目的のない、思考というのかしら。

考えるために考えるというのでもない、ただ、考えっぱなし、というような。

ひらたくいえば、

何もしてない、


ってことなんだけどね。

意地があるから、ひらたくしたくないんだけど。


すっかり、昼夜逆転の生活をしているのだ。

ハタからみたらわたしは気楽なものなのかもしれない。

実際はそうじゃないよって胸をはっては言えないのが、痛い。

そうじゃないって示すためのものが、
今朝のわたしにもない、という事実が。

痛いのだよ。

 

9月3日(水)

きょうの雷は、すごかった。

いよいよこれで世界が終わるよ、
と、うそぶかれたら、そのまんま信じてしまうかもしれなかった。

山手線も停まったというし。
すごかったな。

こんなものに、
翻弄されながら、
ひとは太古から生き延びてきたんだな、と。

自然は自然で、
ひとはひとで、
すごいもんだ。

 

9月2日(火)

東京にいます。

“東京育ち”って、
がらじゃないけど。

よちよち歩きのころから、
今の今までずっと、
東京の空気を吸ってきました。
水道水はいつも火にかけてから飲みました。

東京で、
泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだり切なかったりうれしかったり、
だいたい、体験しました。

わたしにとってこの街は、
仮の場所なんかじゃない。

夜のひとり歩き。
自販機で缶コーヒーを買うためのひとり歩き。
そびえたつビル、

明かりが点いたいくつもの窓が四角い光りを放っていて、
目に沁みた。
まだ誰か、働いている。
いちにちじゅう、誰かが動いている。

と感じていたら、思い出した。

パパは遅くなるから先に寝なさい、といわれて、電灯を消され、ふすまを閉められ、
なのに目はまだ冴え冴えとしてる。

ああいう夜のことを。
ああいう夜の中にいたじぶんを。
心地よい感触。

東京の夜。

この先、どこに行こうと、どの街を愛そうと、
わたしがこの東京で育ったということは、
永遠に続いてゆく。

誇りたいわけじゃない。
嘆くのをやめたんだ。

 

9月1日(月)

眠りに落ちない。
真夜中に、
瞼の裏の模様をじいっと見つめているとき、
わたしはわたしでしかないんだなあ、と思う。

わたしはわたしでしかないって。

ほとんどあきらめたように思う。

わたしがわたしでしかない。

昔は、こころが弱ったときにこう思うだけで力が湧いた。

今は、おなじことを思いながら、
力が湧いたり、抜けたり する。