on日記 2月

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2月29日(日)

ヘッドフォンで好きな歌を聞きながら、歩いていた、線路沿いをずっと。ぱっと見上げた空には白い月が。まだ空の青いうちだったから、まばゆい。なのに目を離さなかったのは白い月のすぐそばに豆粒のようなものがあるのを見つけたから。目を凝らすと、豆粒がすこしずつすこしずつ白い月から離れてゆくのがわかった。あの動きは飛行機にちがいない。
真横のフェンスのむこうで電車がとおりぬけてゆく。ひとをたくさん乗せていた。あの飛行機だっておなじだろう、ひとがたくさん乗っている。なのにここからだと豆粒だ。それにひきかえ、月はなんと大きいのだろう。
気がつけばわたしの気持ちは月に傾きがちだ。ときどき、じぶんのもののように、月を思う。
よくある話だろう。
よくある話だろうけど、わるい話ではないだろう。

ところで、この2月は、地球が太陽を一周する時間の端数を積んで、ふだんより、日数がいちにち多い。

そんな日があるなんて、

時間さえ順序良くは整列できていないのだと思ったときに、
ちょっと安心してしまうのは、
じぶんのだらしなさに甘いからなのかしら。


2月28日(土)

ほんとうならば、

福岡のともだちの家にいたはずだった。
それなのに、
今夜のわたしはいつものこの部屋で、いつものこの指遣いで、いつものこの日記を打つ。

場合によっては、ひどく、滅入った一日となったかもしれない。

ところが、
きょうのわたしは、滅入るよりも、ただ、せわしかった。



がらんとした教室のうしろに立つ。
黒板があった。
ホワイトボードじゃない、チョークをつかう、あの黒板だ。
窓からは裸の桜の木がみえた。

 

わたしの席はどこだったか。

思い出せないのだ。
窓辺に寄りかかって、日が傾きはじめる直前の青い空と桜の木をながめてみたら、そこが、自分にとって、あの3年間のなかで、もっとも長い時間、居た場所のような気がしてくる。

とうぜん、それは、錯覚なのだけど。あの骨ばった椅子に坐ってた時間のほうが、はるかに、多いに決まってる。

窓を開けるのもわすれて、わたしは、沈丁花が香っていた道を、立ったまま、みつめてみる。


きょうは、ともだちが誘ってくれたので、ここに来た。


となりの会議室では、「第一回アスカ高校同窓会総会」後の懇親会が行われている真っ最中だった。


そのひとは、自分はアスカ高校の第3代目の校長だと名乗ってからしゃべり出し、最後にこう言った。

「アスカ高校が、卒業生のみなさんにとっても、()()故郷(・・)となるように、これからがんばっていきたいと思います」

校長先生のお話なんてご無沙汰だったからおとなしく聞いていた、落書きもせずに。

わたしは、アスカ高校の生徒だったことは、しあわせに思う。

でも、校長先生。

それと、これと、話は別。
わたしは、形あるものを「故郷」だなんて、到底、思えない。

賑やかなざわめきが廊下をつたって響いてくる。そのうち、ギターの音と、歌声が聞えてきた。

なっちゃんが歌い始めたのだ。

きょう、来る道で、なっちゃんは言った。

「あの頃のまんま、自分はまだ続いてるって気がする。18才のまんま。だからみんなにね、はやくおとなになれって。そういわれてばっか。でも続いてる気がするんだもん」

わたしは、広がってのびてゆくなっちゃんの歌声を、懐かしいと思ったし、あの頃のまんまと思ったし、でも、だからって、全然、留まってなんかいない。

まだ、なつかしさになど、弄られたくはない。

わたしたちは、動いてゆく。



夜は深まり、お腹は空いてきた。ほんとうならば、

福岡のともだちの家にいたはずだった。

予定していたことと、予定になかったことが、巧妙に入れ替わって、
いずれにしろわたしは、過ごした一日を、こんなふうにして噛み締めてから眠るということに、慣れている。


2月27日(金)

くしゃくしゃの黒髪に、黒いふちのめがねの店員の、鼻筋がまっすぐと通っているのを、それとなく、みている。

すてきなひとだ。

そのすてきなひとが、
わたしのために、今、集中している。


分厚いバインダーをのぞきこんで、ずらっと並んだ片仮名のなかに、わたしの告げた映画のタイトルがないかを探っている。


わたしは映画にあまり詳しくないから、店員さんに話しかけるとき、おどおどしてしまうのを、いつも抑えている。

たとえば、その店員さんの鼻筋が通っていれば、それを契機に、そのひとに恋でもしているような気分を敢えてつくって。


今夜は、きのうよりも、だいぶ、冷え込む。月は、きのうよりも、すこし、太った。

けっきょく、映画は、みつからなかった。ビデオ化されてないらしかった。

だけど、
何かをしそこなったときの気分ではない。


2月26日(木)

立ち寄ってくれるひとがあったので、きょうは日が傾くまでひとときだって退屈しなかった。

就職もせずにいまだに欲望に身をまかせて本なんか読んでいるわたしの目的は、いつか本を書くこと、たくさんの本を書くこと。

あるがまま続けていったら、わたしは必ずそこに辿り着くだろう、疑ったことがない。もっと正確にいえば、疑ったことがないほど、楽観している。

ただし、自分が働いていないということが、不安でしかたないときはしょっちゅうある。

もうじき、24だし。

うしろめたいのだろう。

だからって、働いているひとたちに、わたしは、わたしだって色々あるのよ、なんて言いたくないし、そもそも色々ない。

なんにもない。

それでも、いまだに、だれも、わたしに唾吐かない。

働いて、働こうとしていて、地に足の裏をぴたりとあてて歩くひとたち、みんな、わたしの前でたちどまり、わたしのしていることを眺めて、それでも、唾吐かない。

そのことが、わたしを、どれだけ勇気付けることか。

あしたもきっとわたしは、本をめくり、合間に働いている友だちのことを思い、いつか本を書く日がくることを信じている。


2月25日(水)

いつもの場所で、いつものようにひとりになって、
お弁当屋で買ったペットボトルのお茶をすすって、
本をめくってはみるものの、活字の行列はキリキリ、わたしの集中力を試すように挑発してくる。

あちらこちらから、人びとの話し声が聞えてきて、聞えてくるだけならいつものことだけど、きょうは何故か、その内容をいちいち理解してしまう。

それで諦めて、敢えてしっかりと各グループで交わされている会話を耳に流れこんでくるまま理解することにしたのだけど、聞えてくる話の内容には、何一つ、そう、何一つ、目新しいものがなかった。

誰しもが、どこかでされたことのあるような話し方で、どこかで聞いたことのあるような内容について「話して」いるように、思えてならなかった。
それどころか、どのグループも、どこかで見たことのあるような関係を、それぞれ、保ちながら結びついているように思った。

このような光景は、
いったい幾千繰り広げられているのだろうか。
発作的なくるおしさが募る。

コピー可能、コピー可能…


ちかちかした音声が響いているように感じて、

わたしは、わたし自身もまた、見ず知らずのひとの眼に映し出されたとたん、独特さをすっかり失ってしまうのだ。
痛感した。

親しいひとたちの愛着や優しさに囲われた状態でなら、自分が独特だと感じるのは簡単だ。

問題は、外に、放り投げ出されたとき、あるいは、みずから飛び出したとき。

そのときに、わたしは「何」を根拠に「わたし」をわたしに向けて保てばよいのだろう。


2月24日(火)

ペンの詰った筆箱やノートや読みかけの本を取り出して、財布のなかに硬貨があるかどうか確認して自販機まで缶コーヒーを買いにゆく。


春休みに突入した大学に、人はあまりいない。
それでも全然いないわけではなくて、お茶を飲みながらお喋りしているひとたちの声が、本を読むのにはちょうどいい程度のおおきさで響いてくる。
わたしのようにテーブル席を贅沢にひとりで占めながら、本を読んでいたり、何かをえんえん書きつけてるひとも、すくなくない。


窓ガラスは天井まであって、そのおかげで、外光がたっぷり入り込んできて、あかるい。

ここにいると、ときおり、知っているひとが通りすがる。立ち止まってくれることもあって、坐るよう薦めると、しばらく坐っていって話し込んでゆくこともある。
刻一刻日は暮れてゆき、わたしのいちにちと、そのひとのいちにちの、わずかな部分が重なり合って、その重なり合い方ときたら、思いのほか濃密だったりする。

またひとりになって、
うつむいて、本をぱらぱらめくって、線をひいたり、しるしをつけたり、そのうち空腹を感じて、日はすっかり暮れていて、ペンの詰った筆箱やノートや読みかけの本を鞄のなかに戻して、コートを羽織って、ポケットに定期券があるかどうか確かめて、
帰路につくとき、
わたしは、

わたしの日々を、
きらっていた頃のことを、

うんと遠くに思う。


2月23日(月)

昨夜は、雨のぱらつく中、生暖かい風に促され今年初めてのアイスモナカを齧りながら、いつもの坂道をのぼった。
目が覚めると、雲ひとつない空に何かしら愛を感じる朝だった。
ここが一面草原だったら、さむくなるか雨か何か別のものが降ってくるかまで、えんえん仰向けていたい空だった。

突然、小学校の林間学校で踊ったフォークダンスを踊りたくなった。好きな男の子が近づいてくるのにひたすらどきどきしていたのを思い出したら甘酸っぱくなった。向こうはわたしを歯牙にもかけてなかったはずだったことも思い出したら塩辛くなった。

瞼の裏ではまだまだ仰向けてる気分だった。18歳の頃空になら落ちてしまったっていいやとしょっちゅう思っていたことを思い出した。

陽射しが暖かかった。今朝肌にはたいた化粧水にはUVカット効果などなかったはずだ。紫外線の思う壺じゃないか。いいじゃないか好きにさせておけ、と思うことにした。

とおく、とおくに行きたい。
おおきく、おおきくなりたい。

切に思った。

憧れが鳴り止まない。

ひさびさに現れた月に親しみを覚えた。


2月22日(日)

とっちらかっていた机周りを整頓したら、露骨に風通しがよくなった。

ブラインドは全開、
見えてくる空一面には、
雲が、うっすら、張っている。
きのうと連続して、
きょうも異常に暖かい。

いまだわたしは、
とっちらかっているのかもしれない、なにせ風通しが曖昧。

心、掻き乱す出来事の数々を、愛でるべきか愛でぬべきか。

それはでも大した問題ではないのだろう。

所詮わたしは、この身に起こる大抵のことを最終的には許し受け容れてしまう性質なのだ。


2月21日(土)

この季節にしては暖かすぎる。

おとといあたりまで密林で吹いていた風がひょんな弾みでこの島に辿り着いてしまったんじゃないの?

まるでファンタジー。
とはいえ、昔から、
精密なファンタジーに、

わたしの心は反応しない。
そのくせ、
いびつなファンタジーには常に囚われてばっかりいる。

たとえば、
夢と、夢じゃないものの、合間にいるのが、
わたしの心は、たぶん、
いちばん、慣れている。

この季節にしては、暖かすぎるなかを歩いたきょうの気分もそんな感じといえる。

肌を撫ぜる風の暖か味を心地よく思いつつ、さむいのはきらいなのに、この季節にしては、さむさが弱まってることが、ちょっとこわくて。

そもそも、
この季節にしては、などという物言いは、物事をカテゴライズしてるみたいで、いけないのかもしれない。

されたくないくせに、してしまうなんて、
本当にいけない。


2月20日(金)

暖簾をくぐったのは、夜が夜になり抜く前だった。

食べさせてもらった海老天丼は極上の味がしたのだった。のみならず、“たら漬け”も美味なのだった。

正座の足、かすかに痺れる。

でもお座敷はきらいじゃない、好きな人(たち)といるときはなおさら、近寄りたい人に、そっとずつ、ちょっとずつ、近寄っていけるんだもん、お座敷って、わるくない、
どことなくはしたなさ(・・・・・)の漂ってる感じが、特にわるくない。

畳の縁とか、ふすまの模様とか、置かれた座布団の質感とか、見ていると、
罠を、
喜んで引っ掛かってしまいたくなるような甘い罠を、
誰か、わたしに、仕掛けてくださいな、
はたまた、

わたしが仕掛けてしまいましょうか、
だなんて、

わざと、はしたない(・・・・・)ことを考えたくなる。

これが、暖簾の奥で夜を迎えるという気分なのか。


2月19日(木)

ニオイスミレの花びらは薄紫で、鼻を近づけるとたしかにいい匂いがする。すこし迷ったあとそれを贈ることに決めて、愛想のあまりよくない店員の女の人にいって、包んでもらう。

手に置いた硬貨はそろいもそろってピカピカ光っていて、ニオイスミレと引き換えにされるのを待っている。

昨夜おそく電話できいた。

“あしたはあたたかくなるんだよ”。


だからきょうのわたしはこの頃のうちでもなかなか薄着のほう。

それゆえ足取りが軽いというわけでもないのだけど…そもそも軽いのは足取りだけじゃないのかもしれない。ではどこが? なにが? 相変わらずむつかしいことはわからない、わかろうとしない、わたしの頭がたぶん、軽い。


それにしても、もしももしも、わたしがスミレという名前だったら、どうだったのかしらねえ、わたしの人生に対する態度、および人生のわたしに対する態度。

“あしたもあたたかくなる”。
信じてねむりましょう。


2月18日(水)

的確な説明を求められると応じられなくて、応じられないのもなんだし、逆手にとって、わたしはわたしを説明してくれるよう相手に懇願するのだ。

自分の顔は見えない。鏡をつかわなくちゃ見えない。人に見てもらうしかない。気づいてしまった。

気もそぞろ、2004年2月のカレンダーに目をやれば、ねえ、なんと今日という日がこの年この月のど真ん中。

いろんなものが過ぎて重なってそのうちのもっとも現実味を帯びてないものをわざわざ選んで撫でてつまんでつねって遊んで、人生に厚みを持たせたような気になっている。


ここんとこのわたし、やってることは大体そんな感じで、それはもしかすると鏡をつかわないで自分の顔を知りたいと思うようになったからかもしれない。

確証はない。

保証もない。

嘘ついてない。
この説が
なんだか

いちばん
本当っぽい、

だけだ。


2月17日(火)

夢とうつつの境目が溶け合ってなくなってしまう夢を見た。
目が覚めると、
変わらずつづいている。
まいにちが進んでいる。

ここが夢だろうがうつつだろうが。

公園のベンチで熱いココアをすすったら舌が火傷しそう。
隣のベンチではおじさんがおじさんに、
「仕事、なかなかねえだろう」
あっけらかんと繰り返してる。
動物園はあと一時間足らずで閉まるというし。
空は高くて、晴れ晴れとしてて、春になったら桜がきれいだろうな。
花が好き。
花が好きで、わたしはこのごろ、花を見かけるたびに名前を覚えたい。名付けるという行為はいとおしく思うことの現われらしいし。

好きが多くなるごとに、隙はできてゆき、いったい身体と心のどっちなのか、突かれたがってるのは。

わかんねぇ。

鳩だとか鴨だとか烏だとか、
鳥ばっか見た一日の夜にとんかつを喰らい、キャベツを齧り、たくあんも齧り、
はやく誰かをつかまえて赤裸々なお喋りがしたいと思う。機会が来たら来たらでたぶんしないに決まってるくせに。

ちくしょう。

月はどこだ。

 


2月16日(月)

夢うつつで帰ってきた。
これから布団にもぐる。

とっても酔っ払ってしまったのだ。

脱衣場の鏡で確かめたら、青白いからだがつるっと立ちすくんでいた。脱いだ服には何人ものひとの煙草の香りが染み付いていて、そういえばきょう、ライターのつけ方を何人かのひとに教わったなと思い出す。わたしときたら火のつけ方も知らない。ましてや消し方なんて。
煙草を吸おうだなんて生まれてきてからこのかた一度たりとも思ったことないのに何故きょうはライターなんていじったのか。御香が炊きたいから。この部屋に。ひとりでいるときに。

夢うつつなんて嘘かもしれない。たださみしい。どうしてだかやけにさみしい。ひとつの人生しか生きられないことのふしぎさに打ちのめされそうだ。


2月15日(日)

寒い冬のある月曜日の午前ちゅう、

紅茶をすする。
入れようかどうかすこし迷ったけどミルクのまざった熱かった紅茶の冷めてしまったぬるさが妙に心地よい、窓のむこうのつめたすぎる風を思えば。ホットドッグは食べ終えてしまった。マスタードが名残惜しかった。
けだるさを装うわたしの背後では、わたしより五歳も六歳も年若いと思われる男の子と女の子が額と額がくっつきそうなほど身を寄せ合ってお喋りに精を出している。きっと恋をしてるんだろう。ところで恋ってどうよ。発情を伴った愛情? 愛情を伴った発情?
どちらがより近い?
ひとつひとつの事柄にいちいち意味が込められてるような…そういう気分ってでもすてきだよね。
別の男の子がやってきて、ふたりの隣に坐る。女の子はわたしなんかよりもうんとけだるそうに恋してないほうの男の子にぼそぼそっと話しかけている。

大学がどうとか、模擬試験がどうとか、予備校の授業がどうとか。
あれから五年も六年も経ってしまったけど、わたしはいまだに、ホットドッグが大好き。

思ったほど時はわたしを遠くには追いやってないのかもしれない。

今夜会う予定の友人たちのことを思い浮かべて予定のある日の午前中で気分が穏やかなのは久々だなと思ってマフラーを取り出すのも忘れて空になったマグカップを乗せたトレイをゴミ箱のうえに置いて寒い冬のなかに帰ってゆくわたしは充分若い女の子。


2月14日(土)

真昼間から裸で布団にくるまっていた。

絹の衣をまとってるような気分で、
いけないことばかり考えてる。

実現させようか、

させまいか。

胸元をこすりつけるシーツが、やわらかい、冷たい。


身を起こして、

くすくす笑って、
手始めに、
両足の指の爪に色をつけた。

はやく、
靴ごと、靴下を、

脱がされたい。

などと思う、足の指の爪を光りに照らしながら。


2月13日(金)

13日の金曜日の晩餐会、絞りたてのオレンジジュース、甘酸っぱくて、スイートポテトに手を出すのを忘れた。
仕事が休みだったあだっちゃんと、バイトが終わってから駆けつけてくれたナオちゃんと。わたしは女子高生みたいに生意気饒舌。久々に3人揃った幸福、態度の端々に滲んでたろう。

日付が変わるか、変わらぬ頃、帰宅。

冷蔵庫には妹が二日間かけて丁寧に焼き上げたハート型のチョコレートケーキ。

つまみ食いしたくなるほど、
きれいな形、
やわらかそうで。

真夜中におなかを空かしがちなわたしへの、甘い甘い誘惑。

だけど手を触れてはなりません。

人様が育みつつある愛に、
チャチャを入れてはいけない。

できかけた愛は、かんたんそうで、むつかしい。

のか?

 


2月12日(木)

始発が走り出しても、
夜は明けない。


空には、まばらな星々とならんで、和紙を破りとったような輪郭のあいまいな半月が浮かんでる。


さむいけど、
さむくなかった。

あきらかに、
身体のなかで、
熱が、
灯っていた。

このごろ、ようやく、

はっきりしてきたのは、

この身体がわたしの経験の拠点だということ。

だからわたしはこの身体を、

なめらかであるように、

しとやかであるように、
やわらかさのなかの硬さを圧し

殺すことのないように、
保ち、整える、

義務がある、のだと思う。


わたしは、
嘘をつく。


こどものころ、

母や、父や、妹や、
大事でたまらないひとたちによくやっていたように、
夢のような嘘を。

この身体をとおりこした経験に肉付けして、

いとしいひとびとに
贈ってあげる。


2月11日(水)

こむつかしい話よりも、梅の花。

紅茶のんで、いつもはシロップのほかには何も入れないのだけど、レモンを一切れ、そこに浸してのんだ。ホットドッグのマスタードがぴりりと舌を撫でる。いい気分。
隣の席のひとの吸う煙草の煙が目にしみてこっそり息とめてみたり、それから文庫本を開くのだけど文字があたまに入ってこない。徹夜明けの脳みそは、こむつかつしさを跳ねのけて色のついた景色を求める。

わたしはだから、歩き出す。

校舎のある町からとなりの町へ。どうせみんな陸続き。
つめたい空気をことさら意識して味わってみたり、夢見がちの乙女のように花々のまえでいちいち立止まってみたり。

ある女子高の校舎の壁にびっしりと絡まっている蔦に、溜め息をひとつ。

あんなところで12歳から18歳の6年間を生きてしまったら、いまのわたしとはちがうわたしができていたのだろうか。
くだらないことに酔いながら、さむさを呑み込む。

歩くことは、重要だ。


わたしが、わたしのなかの色彩を絶やしてはいけないと思うのなら…。

わたしは歩くことをやめられない。

 


2月10日(火)

「書く」って、残酷だ。

「読む」という行為をとおして、
わたしは、わたしの核心なるものを、熱くしたり、膨らませたり、それによって世界のあいしかたをあらたに学び取ったり、
とにかく、しょっちゅう興奮をしている。

言い換えれば、

「読む」ことをとおして、
わたしはいろいろなことを
自分のなかに沁みこませたつもりでいるのだが…
「書く」という行為は、

その不完全性を、
次から次へと暴露してゆく。

わたしがわたしの内部に定着させたつもりになっていた事象、知識、経験…といった諸々の事柄が、
その実、
わたしの上っ面で滑って踊っていただけだったということを、
「書く」という行為は、
わたしに突きつけるのだ。

すくなくとも現段階のわたしにとっては、

あることを「書き出そう」とすると、

「読む」ことと「書く」ことのあいだの距離が途方もなく長いことに、気づかされてばかり。

「読み」続けたら、
「書き」続けたら、
いつしか一致するのだろうか。


思うままにわたしは、

わたしを表現しうるようになるのだろうか、
今の状態からはとても想像できないようなごく速いスピードで。

 


2月9日(月)

昨夜からきょうにかけて、
あした提出締め切りのレポートに、取り掛かってる。
乱すほど長い髪はないけど、
けっこう焦ってる。
軽やかに書き上げようと思っていたのに、

ついむきになってる。
むきになって質の高さがあがればいいのだけど、
それもなかなか。
参るな。
もっとはやいうちから走り出せばいいのに、いつだって、お尻に火がつくまでがながい、ながい。
居間では母と妹が、
甘いお菓子を焼こう焼かない、
などと話してる。
焼くのなら、
ひときれ欲しいな。
それにしても散歩がしたい。

禁断症状のように、
おもてを歩き回りたいと考えてしまう。
あしたになったらきっと、
好きなだけ、

歩き回れるんだ。

がんばろう。


2月8日(日)

反芻、という行為が好きだ。

目をみはり、
耳を澄まし、
匂いを嗅ぎ、
舌を出して、
齧り取った経験を、

事後に再び感じ直す、ということ。

それをしてるとき、
わたしは、
生きているという感触の質を、
高めているような気分になる。

それゆえ、
最中の恍惚と

事後の余韻の、
どちらかひとつを選ばなくてはならないとしたら、
わたしは迷いながらも、
後者を選び取るのかもしれない。

ところが、
こんな考え方は、
人生そのものの臭みから永遠に逃れたいという、
わたしの弱さから来てるのかもしれないということも、
うっすらわかっている。


2月7日(土)

浅草で、まるい月を見る。

夜のなかの花屋敷は眠りに落ちていて、灰色だ。

ところで、ねむる屋敷を見ていると、屋敷が目覚めることを忘れようとしているかのように感じられるのは何故だろう。

まるい月と、いくつかの星星に照らされているからだろうか。

わたしにはなんだか、
あの屋敷が、夜を重ねるごとに、みずからの夢に喰われていくように感じられる。

いずれにしろ、
この町を通りぬけるだけでも、
新鮮さを覚えてしまうわたしは、
この町のよそ者だ。


橋のうえから隅田川をみつめてみたら黒々光る水面に月は居なかった。

月の、潔さに、
心打たれかける。


思いが、瞬間的に、
募る。

旅がしたい。


2月6日(金)

お湯に浸かりながら、
からだに染み込んだお酒をおもっていた。

酔っ払うと、
わたしのからだは、

赤いまだらになってしまう。

脱衣所の鏡のまえ、
ひとり、
恥ずかしがる。

もっと涼しい顔で、
嗜めてみたいものだけど。

なかなかそうはいかない。

呑むと、呑むだけ、
おかしなことを口走る。

そのおかしさのなかに、
わたしは棲んでいるんだろう、

常日頃。

まだらだったからだが、
ようやく鎮まってきて、
そしたら眠気がおそってきた。

はやいとこ、夢と、戯れよう。


2月5日(木)

でも、
どうしても、
舌っ足らずなのだ、

わたしは。

波打つものを、
捉えようとして、
囚われてる。

発音に自信がないうちは、
勇気もなかなか。
勇気を出さなくちゃ、

発音も上達しない。

だから、ほんと、

お願いだ。
舌っ足らずでもいいって、

だれか言って。


2月4日(水)

わたしはそれを、
“憂鬱”とも、“陰鬱”とも、
呼びたくない
ので、
“お化け”と呼ぶことにする。

11歳のとき、
“お化け”が、
わたしにつきまとった。

初潮もまだだった。


あれ以来、
書く”ことで、
自分をなだめるようになった。

いつしか、
“書く”ことをとおして、
何かが、

つまり、
自分をなだめる以上の効果が、
あるんじゃないかと、
大それた夢を抱くようになって、
今に至る。


そして、
このごろようやく、

“お化け”と、
仲良くやれそうな気がしている。


2月3日(火)

高校生のとき、
学校のちかくに不審な外国人がうろついてるから気をつけろと担任がいった。
わたしは手をあげて
「外国人って、人種はなんですか」とたずねた。

クラスメイトのひとりが、
笑った。
ふたり、さんにん、よにんと、
笑った。
わたしも笑った。

質問は冗談になった。

冗談じゃなかったのに。

変な目で見られたり、
変だとおもわれるのが怖くて、
わたしはとっさに選んでいた。
冷笑の渦に加わるということ。

質問は冗談じゃなかったのに。

留学して、世界を広げたいっていって、英語の副読本、イギリスの寓話、そらで覚えるためになぞってる。
オーストラリアにホームスティに行ったらホストファミリーは中国系だったって言ってる。
青い眼の、金髪の男の子と、付き合いたいって、頬を赤らめて語ってる。
フランス製っていわれた腕時計、よくよく見たらMADE  IN TAIWANだったって、笑ってる。

ねえ、あんたたち。

質問は冗談じゃないんだってば。


6年越しに、
訴えてみたって、
冷笑の渦に加わった自分は、

消えない。

痛い。
痛いけど、
いよいよわたしは、
この痛みから、
目を逸らせない、
逸らさずにはいられない、
そういうところに、
踏み込みつつある、
のだと思う。

どうしよう…
どうしたらいい?

 


2月2日(月)

一粒ずつ、

重みを増してく雨。

傘を忘れたわたし。

ちょっとくらいなら雨、
浴びたってかまわない。
思ったけれど、

季節が季節だし。

けっきょく、
ひとからもらった傘で、
ずぶ濡れにならずに済んでる。

雨は、
ずいぶん、

久しぶりのような気が。
するんだ。

 


2月1日(日)

灯りを消したら、
瞼の裏のほうが、あかるい。
指と指、かるく、絡めて、
あとは眠るだけ、眠るだけ。

毛布と、夢と、
やわらかいのはどっち?

わたしを包む。
毛布と、肌と、
きもちいいのはどっち?
わたしも包む。
いっしょに眠りこけよう。
瞼の裏も、だんだん、暗くなってきた。