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9月30日(木)
鼻の頭がかゆくてかゆくてたまらないのだ。
ひょんなきっかけでお酒を飲んでいるのだ。ビール一杯、それだけで顔がもう真っ赤。恥ずかしい。でもうれしい。一年前みたい。
皆でよく入ったこのお店は今夜をもって店仕舞い。
♪古い酒場でたくさん飲んだから 古い思い出はぼやけてしまったの♪
ひょんなきっかけで色んなことを思い出してしまう。きゅんとする。まいにち思っているよ。うそ。ときどき思い出してる。そのたびにどきどきするよ。あれはやっぱり恋だった。ごめんね。好きだった。
店仕舞いだなんて、知らなかった。今日知った。最後の夜に駆け込めてよかった。さよならだね。泣きそうになる。わたしはどうしてこうも恥ずかしげがないの(^^ゞ
久しぶりに酔っ払ってぽろぽろだ。
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9月29日(水)
今日明日喰ってゆくためのお金を今すぐ自力で稼がなくてはならないということがない。それどころか、少なくともあと2年。あと2年は、経済的な意味では気兼ねをせずに好きなことに打ち込んでいてもよいという状況にある。
事実としてのそれが、わたしにとっては忘れようとしても忘れられないことなのである。かといって、呪文を唱えるように感謝のことばを日々並び立てても、並び立てるほどに薄っぺらになるような気がする。
これは、うしろめたさ、なのだろうか。引け目、なのだろうか。でも、何に対する?
いつも、いつも、自分に問いかけてる。
わたしは、知的な人間では、本来ないのだ。考えること感じること思うこと、どれもがみな、頭というよりは身体が、身体が反応するから、してしまっていることなのだ。
もっといえば、すぐにかぁっとなってしまう身体を何とかなだめすかすために、頭が必死になって、考えたり思ったりしているようなものなのだ。
そして、幸運にもわたしは、そんなふうにして考えたり感じたり思ったりなどを、存分に、というよりはノウテンキに、するための猶予が、同い年齢の大多数の人よりも数年多く与えられている。
だからこそよく考えるのは、机の上で何を語り合うにしても、そういう場での自分の口から出る<ことば>が、現実からぷっつりと切り離されていてはダメだ、ということだ。<ことば>を、宙に浮かせて放置して、何かを成し遂げたような気になっていてはダメだ、ということだ。
切れば血が出るこの体で、この世界を、片時も休むことなく体験し続けているのだということを、忘れようと思えば忘れられる。
だからこそ、抱え込もう、と…幾度となく決意してきたのだった。
と、身に覚えのあるようなないような左手首に出来た痣をながめつつ、思っている。
ひどい雨で月も見えぬ夜更けに。
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9月28日(火)
台湾は今日、中秋の名月につき、休日だった。
夜、電話がかかってくる。わたしが出た。
父だった。
「お月様、見た?」
父のいる部屋の窓からは、まんまるのお月がよく見えるという。受話器越しに父が話すのを聞いているとベッドに仰向けになって片手で受話器を握っている父の大きな体が浮かんでくる。
それで、わたしや妹が、おおきくてまるいものならば、ほとんど無条件に好きになってしまうのは、他でもない、この父を連想させるからなのだと、今さらながら思ったのである。
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9月27日(月)
夜どおし起きて朝ねむるという生活に終止符を打ち、きょうは朝から課題をやっていた。
辞書に首っ引きで、英文を読む。
わたしの英語力ときたら(以下省略)。
日本語なら半時間もあれば読める量の文章を英語だからねたぶん読むのに一週間はかかるだろう。がんばります。
夜のあとは寝るだけの今、サガンで思い出したからかしら。とつぜん、小島麻由美が聴きたくなった。聴いている。オンナノコはみんな一度はセシルに憧れておおきくなるのだ。なんてね。
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9月26日(日)
雨の休日で自室にとじこもるのには適した状況だ。お香を焚いて、音楽をかける。冷蔵庫の缶コーヒーは残り一缶。あとで買い足さなくてはならない。
昨夜はおそくまで、つれと一緒に、林海象監督の「20世紀少年読本」という映画を観ていた。
空中ブランコや、綱渡りや、道化師や、象がでてくる。
サーカスの映画だった。
つれは、これを、高校生の頃に何度も観たという。
「ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん」
と、聞こえてくるような気がしてとても好きだったという。
わたしは小さい頃、小さいながらも、サーカスだとかピエロだとかには、哀しみがつきまとっているような気がして、こわくて、好きじゃなかった。小さいとはいっても、高校生くらいまでそうだった。
二十歳を過ぎていつのまにかわたしは、サーカスやピエロといったものにつきまとう哀しみ、みたいなものが、気になって仕方がなくなる。
ふしぎなことだ。
サーカスや、ピエロといったものに限らない。昔はこわくて見るだけでこわくてそれで避けてばかりいたはずのものが、今は気になって仕方ないということが、このごろのわたしには多い。
そしてわたしは、情けないくらいに、こわいものの多い子どもだったので、今後ひっきりなしにタブーであったことがタブーでなくなってゆくかもしれないと思うと、それ自体がこわくなってくる。
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9月25日(土)
おもてになど、出なければ良かった。
道で、たくさんの知らない人とすれ違っているうちに、すっかりへこたれてしまった。
やる気が、地に、落ちてしまった。はやく、引き上げなくては、と思う。
机の前に坐った。ねむたいわけでもないのに、頭のまわらないことに苛立つ。車のクラクションが鳴るのが聞える。うるさい。うるさい。
今日のわたしは、わたしにしか、興味がない。
どなたさまも、話しかけてくれるな。
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9月24日(金)
珈琲屋は空いていた。
来る前に立ち寄った本屋で買った文庫本を読みながら、アイスティーを啜る。
前も、この店で、こんな時刻に、これとまるでおなじことをしていた気がする。文庫本の作者も、そういえば、おなじ人だった。そう遠い昔じゃない。
学校が始まり、そう呑気にもしていられなくなった筈が、最後のあがきのごとく、こうして楽しんでいる。
夏休みの後半はずっと、夜どおし起きて小説を書くという生活をしていた。夏休みちゅうに仕上げるのが目標だったのだけれど、いかんせん、思った以上に、物語は膨張し、まだまだ終わってくれない、書く手が追いつかない。こんなことは初めてなのだ。
生活リズムは無茶苦茶なのだけれど、前のように、書きたい書きたい思いながら、いざ書き出そうとするとなんだか怖ろしくなってしまい、けっきょく、一行も書けなくて悶々としていた頃と比べれば、ずうっと気持ちは楽で、これなら学校が始まってしまっても、何とかなるんじゃないかと楽観している。
むしろ、危なっかしいのは、学業のほうで、さっそく来週までには読んでおかなくちゃならないテキストに、まったく手をつけていない状態だ。しかも、そのテキストときたら、英文だったりする。わたしの英語力ときたら、大げさでもなんでもなく、中学一年生の二学期程度のレベルなのだ。やばいね。こわいね。本当にまずいよ。
でもでも、それでも。
この日々は決して無駄ではない、と信じられるからか、腹の底では強気でいられる。
でなければ、こんなところで、のんびりなど、してられないし、帰りは、ひとつ隣の駅まで歩いていこうなんて思わない。隣の駅のすぐちかくには、おいしいクロワッサン屋があるからそこに寄って土産に一箱買って帰ろう、だなんて、にんまり笑って、思わない。
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9月23日(木)
スーパーで、豚肉のロースを買う。
きょうは、わたしにしては珍しく、料理でもしようかな、と思っている。
母が台湾に里帰りしていていないのもあるし、夜、宅急便が届くので、外出できないのもある。
休日なのにお仕事ちゅうのつれが退勤したら、うちにやってくることになっている。
味付けがおかしい、とか、見栄えが妙とか、いつも笑われてばかりなのだけれど、ときどき、すごく褒められることもある。
今日はどうなることでしょう。
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9月22日(水)
だれか助けて、と、声をあげたくなって、でもそれは、目に見える危険がせまってるからじゃない、ここはとても安全だ。ではなぜ、だれか助けて、などと、言いかけてしまった?
夜どおし起きていて、あかるくなる頃ねむる。昼すぎに起きて、顔をあらって服をきがえて鞄もって、学校に行く。
教室のいちばんうしろ、ねぼけまなこで、うつらうつらと思う。ここにいる人たちみんな、首っ丈にしてやりたい。でなければ、だれか。だれかわたしを首っ丈にしてください。
でも首っ丈ってなに?
それより、なにより、デヴィッドボウイの書いた詩の意味を直接呑み込めたらデヴィッドボウイの歌をきくときにはきっと今以上に素敵な気分に浸れるのかもね、なんておもうので、英語をべんきょうしようかしら。
…Here am I floating round my tin can,
For above the moon.
Planet Earth is blue
And there’s nothing I can do. …
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9月21日(火)
やばい。ねむい。力がまるで入らない。ねむい。ねむい。平仮名の、ね、と、む、と、い、が浮かび上がってくる間もなく、ねむい。ねむいの、さなかにいる。
新学期。がっこう。ともだち。夏やすみのおもいでをそれぞれ。あったり、なかったり、あったら、喋った。それじゃあまたね、バイバイね、それぞれおうちへかえるのだ。地下鉄のかいだん。のぼって、おりて、のぼって、おりて。おうちはどこだ。どこ行った? わたしはここだ。ねむいのだ。
やばい。ねむい。ホントにねむい。力がまるで入らない。とりあえずねむる、ひとねむり。
夜より先にねむるのだ。
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9月20日(月)
きょうは、
つれあいの誕生日だった。
とはいえ、記念日の類に無頓着なわたしたちは、とくになにをするでもなく、夜、待ち合わせて、ごはん食べて、散歩して、部屋にもどってねむるという、いつもとおなじことしかしない。
その証に、去年も、一昨年も、その前もその前も、きょうとおなじ日に自分たちがなにをしていたかということが、ふたりそろって、ちっとも思い出せなかった。
それでもわたしは、
この人とでなかったら、この5年とすこしのあいだで、自分は多分もう何回も、いろんな人といろんな終わり方をしてきたんだろうなと、今年ばかりは本気で思った。来年も思うだろう。
夜になって枕をならべて寄り添って眠って、ふいに目がさめて、はじめてこの人の寝顔をみたときもこんな気持ちだったと思って、それで、いつまでたっても変わらないものがあって欲しいと、おろかにも願ってしまう。
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9月19日(日)
咳がおさまって、街へ。
橙色の明かりがほしいから、橙色の光りを放つ電球はどれだろうと探す。
赤い明かりや、青い明かりを放つ電球も、あたりまえに、置いてある。ちょっと…ちょっとだけだけ、欲しくなる。
ありとあらゆる形のランプも売り物だ。提灯のかたちをしつらえたランプや、ろうそく型や、ボールのようにまんまるのランプなどなど。
ふいに、銀色の布に青い糸の細かい刺繍の入ったランプが、目に入る。インド産だという。インドといっても広い。広すぎる。おまえのふるさとは、インドのどこなんだ?
三千五百円、なり。
手が届かないわけでもない。これがあって、お香を焚いて、夢のようではないか。でもどこに置こうか。置き場がない。うしろがみを引かれる思いで帰路につく。
いままで白熱灯が照らしていた部屋が、今夜からは、橙色だ。
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9月19日(日)
咳がひどくて目が覚める。
クスリを飲んだ。
すぐに、あたまがぼうっとして、眠たくなって、もう一度布団にもぐりこんだ。
東京は秋なのにしぶとく蒸している。
クスリを飲んで眠るときは、夢になりたがって夢になれない断片ばかりがゆらゆらと、瞼の裏に浮かんで困る。
次に目が覚めたとき咳もおさまっていたら、切れた電球を買いに、街に出ようと思う。
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9月18日(土)
アイスコーヒーを頼んだ。腹ごしらえに、バタートーストも。両方ともすぐに来た。
コーヒーにシロップとミルクをたっぷりいれて掻き混ぜて、それからバタートーストをひとくち頬張る。ほっとする。
大学を卒業してから、大学院の校舎のすぐそばにあるこの喫茶店によく入る。ともだちとふたりのときが一番多いけれど、さんにんのときもあるし、今日のように、思いついたようにひとりで入って、トーストを頼むこともある。しょっちゅう入ってるものだからさすがに、ウェイトレスのお姉さんとお兄さんに顔を覚えられてしまってちょい照れくさかったりする。
お姉さんがおしぼりを渡しながら、夏休み終わったんですね、と笑いかけてきた。そうですねえ、と、とっさにした反応は我ながらどこか間が抜けている。
この一ヶ月の自分ときたら、家族以外のひととはごくごく親しい一握りのひとと、それも大体、ふたりきりで、でしか会っていなかったから、来週大学の授業が始まってからどうなることやら。妙に緊張する。ひとのたくさんいる場所で、必要以上に饒舌になってしまうかもしれない。
もうすこしこのまま静かに過ごしていたいような気もするけれど、なんとなくひとと会うのが楽しみだったりもする。
長い休みが終わりかけるときに、よく思うことだ。
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9月17日(金)
うたたねのつもりが、うっつ伏したままで、ずいぶんと長く眠っていた。おおきな魚、赤い魚におしりから食べられそうになる。それを、愉快に思っている夢を見た。
母が妹にいうのには、このごろのわたしの性格が心配でたまらない、らしい。
この娘は、とりあわなければそれで済むという筈のことにも、いちいち、噛み付いて、烈火のごとく、わめくわ、叫ぶわ、している。…好きも、嫌いも、とにかく激しすぎるのだあの娘は。
このごろのわたしをどうやら母はそう思っているようなのだ。
自分では自分が激しいとはまったく思わない。
弱い犬ほどよく吼える、ではないけれど、わたしは気が小さいから人一倍防衛本能が働き、カンを起こしやすいのかもしれないとは思う。
つよく、なりたい。
如何なるものが侵入してこようと、怖がらないでいられるつよさが欲しい。
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9月16日(木)
しんとした夜にてくしゃみがひとつ、口から飛び出る。だれに見られたわけでもないのに、ぽっと顔を赤らめる。
わたしとあなたはくっついていて隙間はない。
というのが、世迷言だった。
気づくのに三日もかかった。
フイにした三日ののち、
あなたはわたしが、わたしはあなたが、自分とはちがうからだを持った別のひとり、であるということに気づくこととなったのです。
別々の体なのだから隙間はあってあたりまえで、なにを嘆くことがあったのでしょうか。
いまこそ、この隙間が心地よい。風は吹きこみ、息がくるしくない。あなたの体が、前よりももっと、よく見える。あなたの体に、前よりももっと、やさしい接吻を。
しんとした夜に胸が満ち満ちてくる。
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9月16日(木)
風呂上がり。
冷えた水を一杯、飲む。
濡れ髪にタオル。
肌に化粧水をひたひたとなじませ、それから、はっと思いついた。
こまんじゅう。
伊豆の土産に、と友のくれた、こまんじゅう、があるのだった。
髪も乾かぬうちに両手を合わせ、いただきます、と、こまんじゅうを頬張る。
にやり。
和菓子の類、とりわけ、饅頭は大好物なのだ。
それにしても、こまんじゅう。
饅頭は饅頭だが、こ、が付くだけあって、この伊豆土産ときたら、わたしの掌の半分にも満たない。そしてその小粒なところがかえって、いじらしいような、いとおしいような。
冷たい水を、もう一杯。
両手を合わせて、ごちそうさま、ついでに祈っておこうか、明日もまた良き一日となりますように。
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9月15日(水)
また、世迷い言が、唇から落っこちた。それで、空が白々としてきたというのに、寝付けずにいた。
目覚ましはかけなかった。
さして心地のよい眠りでもなかったというのに、あきらかに昼のものだとわかるような日の光りが顔をあつあつと照らしてるのを感じても、うざったいなぁ、と思っただけで目を開けるもんか、と眠り続けた。
ようやく体を起こす気になったのは、午後の一時も過ぎたころだった。頭がぐらんぐらんとした。気持ちがわるかった。
いつまで寝てるの、と母になじられても口答えをする資格はないと思ったしそれよりそんな気力などなかった。
いつもしているように着替えながら音楽を聞こうとしても、プレイヤーの機嫌もすこぶるわるいのか、CDをまったく読み込んでくれない。前々からこいつ、調子がわるかったのだ。舌打ち。
諦めて、音楽の流れない中でのろのろと服を替える。コンタクトレンズの入りが滑らかだったのだけは、この日の出だし場面におけるせめてもの救いだと思った。
とびきりのいい風が吹いている。空はからっと晴れ渡っていて、すがすがしい。いってみれば、秋口の賜物のような気候で、今日のわたしにはもったいないくらいの気候だ。
歩いていると、熱のあるような気がしたけれど額に手をあててみたくなったけれど、熱のあるように思うのは単なる気のせいに違いないとも思って、けっきょく、右手も左手も宙ぶらりん。額にあてることもなく、そのまま歩き続けた。
目覚めた直後の頭のぐらんぐらんは治まっていたけれど、視界がどこかぼうっと霞んでいるように思う。
今日みたいなときは、何をしたってロクなことはないだろうから、あまり遠くに行くのはやめた。古書店で文庫本を、正規よりも半額の値段で買い、この一冊を午後いっぱいかけて読んで、一日を過ごそうと思う。
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9月14日(火)
夢に現われた妖精に似た生きものが、水滴のような愛嬌を睫毛の先っちょや、唇の端っこから垂らしてみせる技術を、教えようとするのだ。
出来のわるい生徒なのかわたしは、いつまでたってもそれを覚えない。妖精のような生きもの仕舞いには溜息ひとつついて、
…あなたにその気がないのなら仕方がないわ。でもね、愛されるための工夫をするということが皆、道理に反したことなのだと頑なに信じ続けているのは、損になるってなものよ…
とおくまで飛んだ。
わたしは、置いてけぼり。
置いてけぼり。
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9月13日(月)
草木も眠る時刻にだって、珈琲は、自分を飲んだひとの目が冴えるための手助けを、さっさとしてしまう。
だから、
真夜中の2時に珈琲を飲むときの気持ちは、つかっちゃいけない魔法をつかっているときの気持ちだ。
とはいえ、
魔法なんてつかったことないけれど。つかえたらいいな、という、それだけの話。
ああ、
トランプ占いくらいなら、
練習すればできるようになるのかしら。
なんだかとても、
不思議なことがしてみたいのだ。
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9月12日(日)
今から読もうとしている小説には、「文学は人をからかうために作られた最良の玩具」と語る登場人物が出てくるらしい。
わたしは、買ったばかりのこの分厚い小説に、親愛の情を込めて接吻したくなる。
このごろのわたしがやたらと文学に夢中なのは、この文脈に沿っていえば、「最良の玩具」を見つけたからなのかもしれない。
玩具について。
身の回りにあるものの何でもかんでもを、ひょいっと、玩具に変えて、それで遊び続ける人がいる。そういう人たちを退屈させるのには一苦労する。何せ彼らはひとりきり密室にこもっていたって、何かしらと遊び続けている。
あなたはわたしまでも玩具にしている。わたしを玩具にして、遊ぼうとする。わたしもあなたを玩具にして、わたしとあなたは、ひねもす遊ぶ。
退屈を怖れるようになったらイノチが終わる、とも言わんばかりの気持ちが、わたしにはあるのを、あなたは知っている。
からかわないで。
あなたにはあるのも、わたしは知っている。
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9月11日(土)
わっしょい、といっている声が聞こえてくる。おとなの声と子どもの声が、重なり合っている。
家の前を、町内会のお神輿が、通り過ぎていったのだ。
そういう季節なのだ。
覚えはある。
小学生の頃、近所に住んでいた友だちと一緒に、わたしもああして歩いていった。
わっしょい、と言ったかどうか覚えてないけれど、言わなかったこともないと思う。
今もだけれど、あの頃も、町内会、とはいっても、それがどういう組織であって、ふだんどういう活動をしているのか、わたしや、わたしの母親はさっぱりわからなかった。
わたしが子どもの頃のうちの家族、とりわけ母親は、隣近所だとか町内との付き合いというのが、あまり上手ではなかったし、積極的ではなかったのだ。
ある年、近所に住んでいてふだんからわたしや妹を可愛がってくれていたお婆ちゃんが声をかけてくれて、小学校の同級生で仲良しだったメグミちゃんもいることだし一緒に行ってこようかな、という気になり、神輿のあとについて歩いたことがあった。歩いているあいだじゅう、わたしを知っているおとなには、ほとんど会わなかった。
「お神輿のあと、お菓子の入った袋を、ひとり一個、もらってたよね」
母が言う。
忘れてた。そんなこと。
母とふたりで並んで、窓から、神輿と、神輿について歩いている子どもたちを見ていた。
わっしょい、と聞えてくる。
お祭り、だとか、お神輿、だとか聞いただけで血が騒ぐ、という人もいる。
そういうふうに言える人たちを、羨ましい、と思う。
ちょっとした、ひがみ、もある。
お祭り、だとか、お神輿、だとかいうのは、お菓子をもらったことも忘れてしまったほど、わたしには、あんまり良い思い出ではないようなのだ。
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9月10日(金)
部屋でお香を焚くようになってから、ライターで火を点けるのに慣れた。火がそれほど怖くなくなった。
これからはだれかが煙草を吸うというのなら点けてあげたっていい、火。
…あのひとがたくさん煙草を吸うひとだったからね、わたし煙草の煙はずっときらいだったけれど、あのひとを好きになって以来、自分では吸わないけれどね、なんだか他の人が吐き出す煙でもきらいじゃなくなったのよ。…
今日のお香は、甘くてとろりとしたにおい。寝台に赤やピンクの花びらが撒き散らされてるような、華のある甘いにおい。
そういう夢でもみたいのだ。
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9月9日(木)
東京の夏ももうじき終わる。
曇り空の昼下がりに母とふたり、死んだ伯父の話をしていた。
伯父は、父の兄だった。
父は、七人兄弟だったけれど、兄は一人しかいなかった。
母にも弟は一人しかなかった。
わたしの叔父にあたるその人は、人懐っこくてちゃらちゃらとしてて明るくって、職業軍人、だった。
台湾では、母親の男のきょうだいのことを、ジォウジォウ、と呼ぶ。
幼かったわたしは、一人しかいない叔父によく懐いていた。
祖父母の家のそばには、川が流れていた。濁った水がどろどろと流れていったあれはもしかしたら川ではなく下水道だった。いずれにしろ、ごうごうと水が流れてゆくさまを覚えている。そして。そのコンクリートの水辺を、叔父が、わたしをおんぶして歩いた、という記憶がある。あるいは、抱っこされていたのかもしれない。子どもの目にはごうごうと流れてゆく水がひどく怖ろしかったのだ。
その道を、ごうごうと流れる水のそばを、なぜか父にではなく、叔父に、抱っこかおんぶかしてもらって通り過ぎた、という記憶がある。そういうことが何度もあったような気がする。
へいたいさん、なの。
母はわたしに叔父のことをそう云った。
中国語で云ったのか、日本語で云ったのか、それとも、ビン南語―台湾語だったのか。
よく覚えていない。それぞれの言葉で一度ずつ聞いたことがあるのかもしれない。
叔父は、へいたいさん、だった。
叔父は、わたしが12歳だった冬に、死んだ。
へいたいとして、死んだわけではなかった。
自動車の事故で、あっけなく、死んでしまった。
叔母のおなかの中には、叔父の初めての子どもがいた。叔母は体が弱かった。出産に堪えられるか、というほどだった。
子どもは、叔父の死んだ二ヵ月後に生まれた。
男の子だった。
叔母は元気だった。
日本で中学生になったわたしは、歳の離れたこの従弟に、かれの父親がわたしにしてくれたように、おんぶすることも、抱っこもすることも、ただ遊ぶことも、ほとんどしてあげられなかった。
その頃には祖父母の家のそば一帯もすっかりこぎれいになってしまって、わたしが叔父に抱っこされて歩いた道は、埋め立てられたかあるいは目に見えないよう処置されたのか、とっくになくなってしまった。
わたしが従弟とあの道を、わたしがかれの父親と一緒に歩いたように歩く機会は、最初からなかった。
従弟は、祖父母と、かれの母親、それからかれの父親の妹でありわたしの母の妹でもある叔母のもとで、育った。
赤ん坊の頃から、愛嬌のある子でみんなに可愛がられた。
「わたしも、子をなくしたから…」
去年の冬、母の姑が長男を亡くしたとき母の母がそう云った。
日本語が母語のようになってしまった孫娘がそばにいたせいか、きれいな日本語で祖母は云った。
「子をなくしたから…」
「ママ、そんなこと、言っちゃだめよ」
祖母を母は台湾語でたしなめた。
12歳になった従弟は、人懐っこくてちゃらちゃらとしてて明るくって、言葉のあまり通じない従姉のわたしや妹を、身振り手振りでおおいに笑わせる。
言葉が通じないのが、もどかしい。
叔父が、してくれたように、この子ともっと自由に遊べたらよかったと思う。
東京の日はもうじき暮れる。
何が仕合せなのかはわからないけれど、何がよいことなのかはわからないけれど、ぼんやりとした頭で思うのは、
母よりは、長生きしよう。
父よりは、長く生きよう。
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9月8日(水)
低くて、しゃがれた声で、喋りたいものだと思う。
シャンソンを歌うように、喋ってみたいものだと思う。
本物のシャンソンなんてまともに聴いたことはないけれど。
母が、電話で話している。
「うちの旦那、明日北京行くのよ」
と中国語で云っているのが聞える。
北京。
わたしが、北京の天安門広場の毛主席のあの肖像画を、拝めてきたのは、ついこないだのことで、よくよく考えてみればまだあれから一ト月と経っていない。
東京。
今から一ト月のちのことは、実をいうと見当もつかないのだ。
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9月7日(火)
ふったりやんだりを繰り返す空のした、吹く風の中に熱が立てこもっている、と思った。
珈琲屋の入り口の自動扉が開いて、誰かが出たり入ったりするたび、熱のこもった重たい風も一緒に入ってくる。
どうやら今日もわたしは珈琲屋にいるようだ。
と、他人事のように思ってみる(自分の中で昨日から流行っている)。
今日の店にはどうしたことかオペラのような音楽がかかっている。オペラのような、といっても、本物のオペラはまともに聴いたことがないので、今かかっているこの音楽は、オペラのようなオペラではない音楽などではなく、まぎれもなく本物のオペラなのかもしれない。
どちらでもいい。一人でいるわたしにはそれを確かめようがない。
それにしても、なんと甲高い女の歌声。女の声よりも今は男の声が聴きたいと思う。低く、しゃがれた声が聴きたいと思う。低く、しゃがれた女の声でもいい。
わたしのすぐ隣のテーブルには、男の子が一人。半そでのシャツから細い腕が伸びている。「植民地の性」という分厚い本を読んでいる。
盗み見をして確かめた。
細くて、日にあまり焼けていない腕を動かしてメモをとりながら、「植民地の性」を読んでいる。
この人と、話しがしてみたい、という衝動に駆られる。
あなたは、植民地と、性の、どちらにより興味関心を抱いているのですか?
あなたは、この夏、どこにも行かなかったのですか?
日焼けするようなことを、まるでしなかったのですか?
あなたは、今かかっているこの音楽がオペラなのかそうでないのか、知っていますか?
あなたも、甲高い女の声よりも低くしゃがれた男の声が聞きたいとは思いませんか?
わたしは一人でいるのだから、見ず知らずの人に突然声をかけたりしない。
外はまだ、ふったりやんだりを、繰り返しているのだろうか。
ここでコーヒーを飲むのに小銭を使い切ってしまったので、地下鉄に乗る気がしない。すこし歩くけれど、御茶ノ水駅から電車に乗ろうと思う。待ち合わせの時間までにはあと半時間ばかり。
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9月6日(月)
ここのところ、どうしたことか、食が細い。
自分のことだというのに、思い詰めていることでもあるのだろうか、などと、他人事のように思ってみる。
さては誰かに惚れてしまったのに違いない。
だとか思ってみる。
惚れて惚れて惚れ込んでメシも喉を通らないのに違いない。
だとか思ってみる。
手に入れたばかりの文庫本を珈琲屋で読んでいるような午後に、思ってみる。
掻き混ぜるのを忘れて、コップの底に溜まっているシロップの甘ったるいのを一息で吸い込んでしまった。
わたしの底にもこんなものがもしかしたら溜まっているのかもしれない。掻き混ぜ損ない、はよくない。悲惨だ。喉が焼ける。
隣のテーブルでは、「ああいう場では君ももう少し愛想笑いしたほうがいいよ」と男が女に云っている。きついことを云うもんだわね、と思ったけれど、女は云われてすこし嬉しそうだった。
愛想笑いなら、わたしは、得意だわ、と思って、すぐにそんなことはないと思いなおす。
愛想笑いなら、わたしは、得意だった、と云うべきだ。わたしの場合、歳をとればとるほど、それが下手になってきた。この頃では、そばにいる親しい人がわたしに先立ってわたしの感情の乱れに気づいている、ということがよくある、などという始末。厄介者。みなさんごめんなさいありがとう。
手に入れたばかりの文庫本、性描写の連続でまるでポルノ小説。もうたくさん! と本を閉じたときにはとっぷり日が暮れていた。
今日もまた一秒たりとも躊躇うことなく時は流れ去っていき、食が細くなった、なんて気のせいだった。
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9月5日(日)
女は愛されてこそ、花、と母親は云うのだけれど、お尻が軽くてもいけないの、とも付け加える。
おかあさん、ごめんなさい。
愛されたくて愛されたくてたまらないから、あなたのムスメは、ここだ、と思うたんびに、少しずつ少しずつお尻の体重が減ってゆくの。
少しずつ少しずつ減っていって、しまいには、お尻は宙に浮き上がりそうになる。
間違っちゃいけないわ。
タケコプターはお尻に、ではなく、頭にくっつけるもの。でも気がついたときにはお尻なのです。
おかあさん、冗談です。
わたしは、いつだってお尻をぺたっと、地面にくっつけています。
愛されたくて愛されたくてたまらないけれど。
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9月4日(土)
観覧車には、並ばないでも乗れた。
一日に渡って曇り空で、雨がときどき垂れ落ちた。
すごくしたいことがあるわけじゃない。だらだらと歩きながら、ベンチを見かけるたびに九割の確率で“休憩”と称して坐った。
海を見た。
海といっても、足をつけられそうもない。
それでも良かった。
海が見たかった。
魚が跳ねた。
「トビウオ、だ。」
「とびうおじゃないって」
「飛んでるウオじゃん、トビウオだよ」
「とびうおじゃないって、それは」
意味があんまりない会話をずっと、ずっと、してた。
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9月3日(金)
ここから一番近い海は、どこかしら?
と思う。
海、というよりも、海の見える場所は?
遊びに行こうか、と言ってて、だけど行くあてなんか全然なくて、何にも思いつかなくて、そういえばこの夏海をまだ見てないわ、と思って、海でも見に行きましょうか、なんて話になったのです。
明日。
だから今日はさっきから考えているのです。
ここから一番…
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9月2日(木)
夕暮れ時は浜名湖にいた。
迷子になるのがこわいからあんまり遠くには行かなかった。バスが見える場所で、のびをして、空を仰いだ。眼がすうっとするような気がしたのは、雲の切れ間から空の色がのぞいていてキラキラしていたからなのでしょう。
バスが走り出す。
隣の友だちの顔は眠たげで、わたしの顔もきっと眠たげで、わたしたちは昨日からずっとしていたお喋りを止めてそれぞれ目を閉じた。
窓際の席を譲ってもらったから、
(わたしは、わたしに乗り物の窓際の席を譲ってくれるひととなら、大体のことがうまくゆくのだと思い込んでいる)、
わたしは目を閉じたまま窓に寄りかかった。
窓のむこうが、徐々に徐々に、薄暗くなってゆくのを瞼の裏で感じたようなないような。いつのまにかぐっすり眠ってしまい、目が覚めたとき、外は暗かった。夜になっていた。
そのまんま外を見つめていると、色とりどりのネオンや看板が見えてきて、それらはみんなラブホテルなのだ。ドライブでデエトする恋人たちがあいしあうためにも、こういう大きな道沿いには多いのよね、などと思っていたら、ぱっと目に入ってきた看板の文字
「ホテル あいぬ」
「ホテル あいぬ」には、一体全体どんな気分にさせられるお部屋が揃っているのだというのか!
気になって仕方がなくって、すっかり目が覚めてしまったのです。
東京までは、あと2時間、くらい。
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