ON日記12月 Taiwan編

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12月31日


うちのおばあちゃんはお医者さんに100から3を引くといくつ? と中国語で尋ねられたときには答えることが出来なかったというのに、100引く3は? とおなじ問いを日本語でされたら「97」と日本語で答えることができたという。
わたしと妹が母の喋る中国語と台湾語を積極的に口真似しているのを見ておばあちゃんはうれしくてたまらないというふうに目を細める、そしてわたしと妹の手を握ると、母の喋るそれよりもきれい(・・・)()日本語(・・・)で言うのだ。

「ことばをたくさん知っているのはいいことよ。どこに行ってもまごつかなくなるのよ。だからがんばってお勉強するのよ。」

日本人になってしまった孫娘に向かって、そう言うのだ。妹は大きな目をさらに大きく開けて「うん、おばあちゃん。」とうなずく。その横で姉のわたしは伏し目になってしまう。おばあちゃんはわたしと妹の手を握ったまま云ったのだ。

「おばあちゃんは、日本語じょうずねえ、って言われるときもある。」

一年かかって気がついた。実のところわたしは過激な人間ではない。
12月最後の祝日に街のいたるところで揺らめいていた旗のうちのひとつを指差して、「ねえ、ママ。あれに火をつけたら捕まるんだろうね。」と云ったら、「あなた、お願いだからやめてよね。」と懇願されてしまったのには笑った。そんなことするはずないじゃないか。平穏な毎日でありたい。平和な方法で社会を思いたい。撃ち殺されたくない。でも冗談が冗談になりきれていない。それも自覚しよう。


「おばあちゃんは、日本語じょうずねえ、って言われるときもある。」

おばあちゃんは昔、日本人だった。17歳まで日本人だった。わたしが16のときに死んでしまったおじいちゃんも日本人だった。22歳まで日本人だった。
わたしは日本人だ。24歳になって自分は日本人だと決めた。日本人ではないけれどでも日本人なのだと決めた。


そして。

 

わたしのようなジャパニーズを。わたしのような日本人を。おばあちゃんのような日本人だった人を。

日々忘れることなく思っていたい。何かしたい。そのために生きる。意地でもそうしてやる。ゆく年とくる年の波打ち際で決意した。


12月30日

シャワーの出がわるいことを父は気にしてる。娘のわたしはそれも一興でしょうなどと、さながら旅行者の気分で鼻歌をうたいながらさっさと体を洗ってしまうのだ。途中でお湯がお湯でなくなった。水になった。それもご愛嬌。お湯に戻るまでの数十秒間を裸で待つ。
雪が降ったという東京から来たのだ。真冬とはいっても最低気温が十度やそこらの台北では、わたしもあまり寒がらない。昼間は街路樹の青々と繁る緑に目を奪われた。
現地時間は午前零時を過ぎる。
早く寝ないと明日の朝はつらくなるだろう。眠くないわけではない。何故だか寝たくない。わるいクセが疼く。こうしてものを思いながらキーボードを叩いたり、ぎゃくにいえば、キーボードを叩きながらものを考えたり、そういうことをしていると、ほとんど何もしてないのに何かをしているような錯覚に陥る。
ことばを。操ってるつもりで、絡め取られているのだ。画面に映し出されたカタカナとひらがなと漢字に支配されているのだ。
日本ではない場所に身を置くと鮮明になる。わたしは日本語の奴隷だ。喜んで奴隷だ。


12月29日

台湾にいる。

父が台湾にいるときに泊まるというアパートで、家族四人は夏以来に揃う。

妹とおなじベッドに眠る。早いうちに寝息をたてる妹とちがい、夜になるとわたしは目が冴える。すやすや眠る妹をあとに残して部屋を出る。タイルの床を、忍び足で歩いた。妹と共同の寝室のすぐ脇にある小部屋の扉をこっそり開く。洗った洋服のにおいがする。
到着してすぐに確かめたのはこの家にはこの小部屋があるということだった。物置にするための部屋らしく、季節ちがいの父の衣服や雑具などがひっそりとおさめられている。ここだ、と思った。夜になってみんなが寝静まったらここだ、と思った。ここで、「孤独を甘やかそう」、と思った。

 

今そこにいる。今年もまた台湾での晩が過ぎてゆく。一年前は久々の台湾に胸が弾んだ。一年経った今はどうだ。この手で何を残した一年だった?

 

一年前よりもかすかに年をとったように思える祖母と会い一年前よりも小さくなってしまったように思える身体に抱きしめられ一年前とおなじように温もった皺の手に手を握られ、それをみんな思い出しながら、わたしはわたしを強く責めている。いつまでうかうかしてるつもりなんだ。ときは流れている。ただもう、流れている。忘れんな。


12月28日(火)

(もう少しだけ彼ら(・・)の話をさせてね。だってアイシテルんだもの。)

映像だった。

英国で、英国人の観客に向かって彼らは、自分たちの歌を演奏していた。英語の歌詞で歌っていたボーカルが間奏になって突然叫んだのだ。

「ジャパニーズ!」

そこから、歌は、日本語の歌詞に切り替わった。

鳥肌が立った。自分もジャパニーズだ、と思ったら震えた。菊の紋章の付いたパスポートは持っていないけれど、この人たちが生まれ育った「国」の言葉を、わたしもまた、聞きながら喋りながら読みながら書きながら、育ったのだ。ほかのどんな言葉よりも自分を表現するのにはこれしかない、という言葉なのだ。


「わたしも、ジャパニーズだ。」
心底思った。思うことができた。それは、ひょっとしなくとも、生まれて初めての感覚だった。

「わたしね、日本人じゃないんだよ、台湾人なんだよ。」

と子どもの頃に誇らしげに語ったことがあった。

「わたし、日本人じゃないの。」
と言うことと、
「わたし、台湾人なのよ。」
と言うことを、無邪気に結びつけていたのはいつぐらいまでなのだろう。
「わたし、台湾人なの。」
と言うことを躊躇するようになったのは?
どちらだっていいし、どちらでなくてもいいし、と思うようになったのは?


今、台湾にいる。

街角に突っ立った。街行くひとびとを眺めている。ひとびとの喋ることばに耳を澄ましている。届いてくるのは中国語と台湾語がちゃんぽんになった音。これが、わたしの母語だ、と思う。わたしを赤ん坊から育てたひとたちの話すことば、それがこれだ…

と、日本語で思っていた。ひとがみたらわたしは、「ジャパニーズ。」なのだ。どこに行ったって、今のところ―日本語でものを思い、感じ、考えている限り―そうなのだ。

「オンちゃんは、日本人だよ。」

地べたに坐って網越しの海を眺めながら缶コーヒーを飲んでいるときに友だちは云った。
「でも…、国籍が」
「いや、日本人なんだよ。」

日本語でものを考えたり感じたりしているんだから、日本語で傷ついたり興奮しているんだから。日本人なんだよ。

そういうことだった。

自分を日本人だと名乗ることを躊躇してきたのは日本がきらいだったからではない。そんなことあるはずがない。

「オンちゃんは、日本人だよ。」
場合によってはわたし、ひどく傷ついた一言だったと思う。軽くて重たい一言だったと思う。
だけどそのときのわたしは、「ジャパニーズ!」と叫んで日本語を歌いだしたひとたちの見せてくれた「夢」の余韻に包み込まれていたのだ。

 

嬉しかった。腹が立つほど嬉しかった。泣けてきてしかたがなかったけど口のわるい友だちにからかわれるのがいやでこらえていた。

「わたしも、ジャパニーズだ。」

今年大学のあるゼミで、
「母国語と、母語はちがう。」

と言い放ったことがある。理由を求められても説明できる自信がないくせに妙に強い口調で言いきった。むきになっていたのだ。むきになって鬼のような顔をしてたのだ。教室にいただれもが黙り込んでしまった。ごめんなさい、と思った。

今、台湾にいる。台湾の街角に突っ立って、街行くひとびとの話すことばを聴いている。

 

「母語と、母国語はちがう。」

説明を求められたら弱るだろう。でも、ちがうのだ。ちがうに決まっている。

わたしの母国語は、日本語だ。


わたしのようなジャパニーズを。わたしのような日本人を。


日々忘れることなく思っていたい。年の瀬に誓いを立てる。


12月27日(月)


昨日のことが夢のように思える。ぽんやりしているうちに日は暮れる。

 

旅立つのは明日だった。


寝なかったから、昨日と今日が溶け合って、わからなくなってしまったのだ。

年の瀬だからか、いろんな人とのことを思い出す。いろいろな人とのいろいろな瞬間を思い出す。周囲にあるものをある人を、次から次へと好きになった。泣き笑いでずっと来てしまった。泣いたし笑ったなと今年ほど思うことは今までなかったなと思う。思う傍らで、これくらいの気持ちにはけっこう毎年なっているような気もしている。

 

自分が消えない。どんなにあがいたって自分が消えない。誰といたって、誰といいことしてたって、誰とぶつかっていたって、いつでもわたしがわたしに寄り添っている。意地悪く笑みを浮かべてることもある。ふくよかに笑っているときもある。嬉しくて哀しい。哀しくて嬉しい。


だれよりもわたしに幸あれ。わたしの幸のためにはわたしが愛するすべての人々にも幸あれ。