日々の温
トップに戻る
昔のON日記
現在のON日記
5月30日 月曜日
ねがいは届かず、雨の音で目が覚めた。雨はそんなにきらいじゃない。歩き回るのにすこし不自由するだけだ。長靴の気分で冬に履いていたブーツを履いた。雨なのにいつもとおなじぐらい歩き回った。
傘はさせど、びしょ濡れておうちにたどり着いたら、熱い湯のお風呂が用意されていて、「ママ、わたしってなんてシアワセものなんでしょう。」と、母に抱きつく。
お風呂上りの身体をそのまま布団にもぐりこませる。
ねむってもいいときにやってくる眠気は甘くてやわらかい。とろんとしてくる。
雨は、まだあがらない。
夜明けにはあがるという。
目をとじるわたしの胸にひろがるのはお日様を吸い込んだ布団のような健やかな気分。(浮いちゃいそうよ。)
5月29日 日曜日
むかしむかし。子どもの頃のわたしが、「大きくなったらあんなふうになりたい。」と憧れたおんなのこに、いまの自分は、なれてるのかな。どれだけ近づけてるのかな。
…気分なら、とてもよいのだけど。
もしももしも。わたしがおとこのこだったら、いまの自分に、恋をしたりするのかな。好ましいと思うのかな。
…だれかがわたしを好きになったのなら真っ先に思うのは、「このひとは、大丈夫なんだろうか。」ということなんだけど。(ホントは嬉しいくせに。)
あぁなんかいま、とてもシアワセだ。漢字で書くと仰々しくて負けそうになる。ひらがなだと今にも消え入りそうでこわいから。カタカナがいちばん似合う。「シアワセだ。」
夕暮れに似合うすてきな音楽、それを選んでかけてくれる友だち、甘口の缶コーヒー、窓から吹き込むさむくもあつくもない風。まだあと何時間もこうしてゆっくりしていられるね。
こわい顔をするのに飽きたら、わらうのがラクになったってホント?
唾とばすほど夢中になって色んなことをわめきたてていたけれど。本当にしたかったのはあんなことじゃなかった。
…あんなことばっかりしてたおかげでわかったことはたくさんあったんだけどね。
(したい、したい。
せがんでばかりのわたしに、呆れ顔なのは特定のだれかというわけでなくて、もうカミサマなのかもしれない。)
呆れていたって、願いはどうしてだか叶えてくれる。だから。だからどうして。わたしはいつも、おおきなおおきなものに両手を合わせるような気持ちで、いまここに在ること、を、うれしいと思っている。
明日もお天気だといい。
5月26日 木曜日
お天気がよいので、近所を散歩した。
この2週間ときたら、ピンと気持ちの張った状態が続いたので、それがひと段落したおとといの夜明けから、これでもかってほど緩めてラクしてる。
しずかに、しずかに。閉じこもるように過ごしていたから、今日は久しぶりに、会いたいなと思うひと(たち)の顔や声やそのひと(たち)と自分がいっしょにいるときの感じをクレパスの色を数えるように数える。
こんなときが来るとはね。
こどものころは想像しなかった。
自分に、すすんで会いたいと思うひと(たち)が、数えるぐらい、いるとはね。
トシをとればとるほど失うモノがあるという伝説はウソだったのかもね。
大切に。大切にしなくちゃ。そう思える今を大切に。
これからもずっとそう思える今が続くように。
プラスティックのコップに氷のごろごろ入ったアイスティーとコロッケサンドをトレイに乗せて、日のあたる椅子を選んで座った。
(昨日もお昼は公園のベンチでお弁当を食べた。)
新緑がきらきらと光を撥ねてまばゆい。しずかに、しずかに息を吸って吐くの。
おいしいな。おいしい、このコロッケ。朝から何にも食べてなかったし。
お天気がよいので、目をつぶって空をみあげる。まぶたの裏にうつる。今好きなものが見える。
5月25日 水曜日
おんなのこの根拠は、身体だ。
妊娠していなかったので、今月もまた、いらなくなった赤いものが、身体から出てくる。
痛みはそれ程でもないのだけど、ぎゅうっと搾り出される、アノ部分がうっとなる、立っていられない、むしろ動いていたい、わたしの場合。
ひと月のうち、身体がこうなっているあいだは、身体に全てを預けたい。
靴を脱いで、
靴下も脱いで、
わたしの足、指の爪は、ないようである。ぐらい、小さい。
わたしの足、指の爪は、爪になるのを途中であきらめてしまった。のかしらと思うぐらい、小さい。
親指をつかむ。これに似ていて、もっとおおきな、つるりとしたものを知っている。
いとおしいものを知っている。
わたしには、わたしも忘れている、やわらかいところがたくさんある。
わたしはだから、硬いものを欲しがる。のかな?
ひと月のうちで身体がこうなっている今ほど、感じられるときはないよね。
おんなのこの根拠は、身体だ。
おとこのこにとって、おんなのこはよく分からない生きものなんだって。
おとこのこは大変だ。たたかう生きものだ。
そのくせ、一度傷ついたら、なかなか立ち直れない。
うんとやさしくしてあげなくちゃね。(…つけあがらせちゃダメよ。)
おんなのこは強いよ。あいする生きものだ。
皮膚で決める生きものだ。
触りたいと思うひとには、うんとやさしい。
それがおんなのこという生きものだ。
5月24日 火曜日
テレビはあんまり見ないので、ゲイノウジンのことには疎いのですが、今回はゲイノウネタです。
このごろ流行りの男の子。近頃人気な男の子。クールな笑顔がとても魅力的だわ。
その子はわたしが今も住むこの町で育った。
何でそんなこと知ってるのかといえば、わたしよりも四つ年下のその子が、うちの妹と中学のとき同級生だったから。
その子のお母さんはフィリピン人なんだって。でもそのことは非公表。
あえて秘密にしてるわけではないのよ、きっと。
でもよくあるじゃん。ゲイノウジンのプロフィールとかにはさ、母親がフランス人、とか、父親がベルギー人、とか。どことなく自慢げに書き添えられてたりするじゃない。
この子の場合、ソレが、自慢げに書き添えられてないっていうのは、いったいどういう意味なんでしょうか。
にこにこ話を聞いてたのよ、わたし。
知ってるひとがテレビに出てるっておもしろいね、なんて、朗らかだったのよ、わたし。
「先生の言うこととかあんまりよく聞かない不良(笑)だったんだよ。」
とか。
「中学んときの彼女だった××ちゃんもキレイな子だったよ。」
とか。
にこにこ聞いていたのよ、わたし。
「お母さんはフィリピン人なんだよ。でも内緒にしてるみたい。事務所の方針?」
にこにこできなくなった。一瞬で。
そのわたしの頭をよぎったのは、
「お土産にもらった時計、フランス製と聞いたので喜んでいたら、裏側に、『MADE IN TAIWAN』とあって、ずっこけちゃった。」
「それは…、ずっこけますねえ。」
子どものころに聞いたこのジョーク。
内緒にするのは理由があるのでしょう。
その理由を裏付ける、なんらかの世の中の考え方、支配的な考え方があるのでしょう。
イデオロギーってことばは辞書を参照にしてもじょうずに使えているかどうか自信がありません。
だけどきっとイデオロギーなんです。
そういうイデオロギーなんです。
かれの母親が、フランスの人だったら、かれにとってプラスとなると誰かが判断して、プロフィールに一行書き添えられるでしょう。
でもかれの母親は…
その夜わたしは、子どものころに家族が日本人ではないという理由で家族について話をするとき時折やけに肩身の狭い思いをしていた自分をすこし思い出してしまった。子どものころに台湾人の母親を同級生に見られたくないと思ったこともある自分をすこし思い出してしまった。
それで胸が。胸がすこし痛んだのだ。胸が。
腹が。腹が立ったの。腹が。
子どもの頃のわたしに、今のわたしは、たぶん、とても必要だった。
わたしは。わたしはだから。
諸事情によりON日記は5月14日〜23日まで休止させていただいてました。
5月13日 金曜日
うしみつどきにパンをほおばっている。好きな歌をききながら。とってもうれしく膨らむのはお腹だけでないわ。むねもこころも甘く充たされる。一日一日がいとおしいと声を大にして叫びたい。こどもじみてるかな。わたしをこんな気分にしてくれる、すべての要因にここぞとばかりの感謝とキスと愛をこめて…。「はやく寝なさい」がきこえてもお構いなし。
5月12日 木曜日
せっかく会えたのだからとねむるのが勿体なくてねむたいくせに夜じゅう起きていようなんて思うのもできちゃうのも学生のうちだからだ。案の定、明け方ごろになるとスイッチを切るようにみんなでねむりだす。床に転がってる缶ビールを蹴飛ばさぬよう絨毯を濡らさぬよう気をつけよう、なにせひとんちだもの。
うつつを抜かしてるうちにお財布は軽くなる。
どれぐらいのことと引き換える?
楽しいのはだれのおかげ?
今ここに在るのを楽しむ才能に長けてる。
ふだん乗らない電車に乗って、ふだん行くところに向かう。「学生なんだから。学生の本分はべんきょうなんだから。」もっとここでいっしょに遊んでいようよという誘惑に負けず、がらがらの電車のなかで一人、昨夜を反芻するのがわたし。
「戦争は終わる。君が望めば。」そんな意味のアルファベットが描かれたTシャツを着てる女の子。電車のなかでお化粧してる。「戦争は終わってない。今も火の海よ。」
こんなわたしを、平和という穴にすっぽり入り込んでうたた寝を繰り返すわたしを、守ってくれているのは何?
5月11日 水曜日
もえるように愛してるひとが<線だけになってしまう夢>を見たらわたしも泣くのかな。
わたしたちのからだは線だけでできているわけじゃないから。
さわれなくなるととても困るから。
どうしてわたしはこんなにも小説にこだわるのだろう。
ここにいるのが窮屈だったから、ここにいる自分は自分が好きになれるような自分ではなかったから、どこかぜんぜん別のところに行きたかった。
恋することと、愛すること。
どちらともどういうものなのかはっきりとは知らなかったころの話。
もえるように愛してる。さわれなくなるととても困る。からだは線でできているわけじゃないから。さわってほしい。さわりあっていると<好き>はいっそう募るのよ。
そんなこと覚えてしまったあとも、どうしてわたしはこんなに小説が書きたいのだろう。
ここは窮屈だなんてどのクチが言えるの?
ここにいる自分は好きになれないなんてのも遠い昔の話だ。
わたしは小説が。
大好きな音楽がある。大好きなマンガがある。大好きな映画がある。大好きな絵もある。どれひとつとして、大好きな小説にはかなわないんだ。どうしてだろう。
紙の上には別の「自由」があると思う、といったら変な顔されるかしら。
紙の上には、ことばによって構築された「世界」がある。
「不自由」も含んだ「自由」な「世界」。
ことばという線によってできた「世界」。
そこでは、線だけでできたひとたちの愛や苛立ちがある。
線だけでできたひとたちの命を孕んだ紙は、ただの紙ではないわ。
別の「自由」があるということを、ほのめかす魔法の紙になる。
わたしはこんなにも小説が書きたい。一生書きたい。駄々っ子のように宣言しつづけてきたけど、そろそろ潮時ね。もう中途半端なことはできない。
線でもって紙の上に「世界」を構築するということ。
それについて。
これについて。
今までのようにやみくもに書くことではない方法で探究しようと決めた、そして顔をあげたら細い細いお月様が目に入った。
幸先はよしとみた。
5月10日 火曜日 不思議ちゃん?モード。−残り少なき20代前半を満喫するために−
このごろ、気分はとってもミルフィーユ。
幾層にも重なって、ふわふわっと夢見心地。
素敵な人たちが、わたしにとってとても素敵な人たちが、たてつづけに目の前に現れるものだから、そのたびにわたしは、自分がちいさな花のような、あいらしいもののような、そういうもののように存在したいなと思って、それらしく振る舞ってみようとする。いつだってどっかぎこちないけど。
まず、花を与えよ。
むかしのひとのことば。自分で自分に呪文をかける。「あんたはいいものよ。」ただそれだけで、まわりのひとのやさしさが違ってくるから。試してみればわかる。「わたしはいいものよ。」
はっくしょん。
へたくそな小説、未完成の小説をみぃんなまとめて、本日、箪笥の奥にしまいました。
未練たらたらでときおり引っ張り出してはちらちら眺めて希望を抱いたり絶望したり。
胸に頭と掻きむしる。
そればっか繰り返してきた。
(箪笥たって、ホンモノの箪笥ではない。これは比ゆ。ただの比ゆ。ヒュー。ヒュー。)
気づいたのです。
「今は、時機じゃない。」「書く機は、熟していない。」
あおくもなる前なの。種と、土しかない。水ならあるわ。日だってあるの。
なのに出るたび芽は小鳥に食べられてなくなる。
小鳥のおなかのなかで生涯を終える。なさけない。
もっとやさしく、もっと根気よく、もっと長い目で。
見てやらないと。育て上げようという覚悟を決めないと。
ぜんぶ食べられちゃう。
気づいたのだ。
小鳥が、意地悪だったんじゃない。
小鳥は、正直だった。
大木になる予感のない芽なんて…空飛ぶ鳥のおなかを満たすためにあればいい。
大木になる予感のある芽を。
「わたしは、小説を書きません。…どれぐらいかかるかわからない。ずっと、ずっと、ずーっと小説を書きたいから、生きてるあいだはずっと、書きたいから、…だから今は、じき25になるという今は、書かないでおこうと思います。」
それにさ、「若さ」を魅力の一部として押し出すのにはもう年をとりすぎてしまったしね(笑)。
では何をするの?
それを言うのは明日にとっておこう。
おやすみなさい、小鳥ちゃん。
5月9日 月曜日
連休明けの図書室には、ひとがたくさんいる。
みんな勉強熱心ね。感心するわ。
かくゆうわたしも意欲ならあるの。あれも知りたいこれも知りたい。尽きない。
本棚と本棚のあいだを歩きながら、わたしが知りたくてならないことは、わたし自身についてなんだわ、と思う。すべてがそこに繋がっているんだわ、と思う。
当たり前すぎてすぐに忘れる。
自分は、自分が思うほど、たいそうなものではない。
この世から今消えたって、親しいひとは泣いてくれるだろうけど、みんなすぐに忘れる。だから。
そういってわたしを見つめた友だちの顔が、まぶたの裏によみがえる。
わたしたちは、わたしたちが思うほど、たいそうなものではない。だから。
今ここに在るということに、ただ集中すればいい。
熱心ね。
5月8日 日曜日 ![]()
ちっちゃな頃から大好きだった筈だけど、歳をとればとるほど、ますます好きになってくる。あいしたい、いたわりたいし、何よりもやっぱり、まなびたいなと思う。
ママはいつも、幸せと仲良しだね。
そういうと、わかったようなわかってないような、目をぱちくりっとさせて、そう? と返ってくる。
「パパはママのことが大好きなのよ。だからママの娘であるあなたたちのことも大好きなのよ。」
息子ができても娘ができてもわたしだっていつかこんなことばを言いたいなぁと心底思う。娘にそんなことばを言えてしまう母のことが腹が立つほどうらやましいと思う。
くやしいから今日は母の日だけど、お祝いなんか何にもしてあげなかった。
というのは嘘で、やっぱり、母にカードなんか書いちゃったりして。深夜にテーブルに置いといて朝いちばんに見てもらえるよう仕向けたりして。そしたら午前中に妹からの贈り物も京都から届いちゃったりして。
「あなたたちがママのこと大好きでうれしいわ。」
五十をとっくにすぎた母が少女のように笑ってよろこぶ。
幸せと仲良く寄り添っている。
たにんの幸せなんて実にどうだっていいわたしも、母には幸せでいてもらわなくちゃ困ると思うのよ。それに一役買うことを今できていることに安心するのよ。
5月7日 土曜日 夜更けのスキャットバージョン
カゼギミで、喉が痛い。合わない体質だとわかってるくせに、カゼグスリ、あとはもう寝るだけだしと3錠まとめて口の中に放り込む。お水といっしょに。
“わたしにとってシアワセって何だろうか。”
クチに出すのにはくだらなすぎるけど、ムネのなかでは決して消してはイケない問いが、モーローとしたあたまのなかでくるくる回っている。
何だか土のにおいがするようでねむれない。お水をたっぷり吸い込んでさらにお日様にも恵まれた土のにおい。土のうえに見たこともないような色と形のお花がぽこぽこ咲き出してそのお花のことごとくをわたしがとても好きで、とてもほうっておけない。そういう景色。そういう感覚。
あの日お花に見守られながら送った手紙はちゃんと愛をまとったまま受け取り手のもとに届いたようだ。
ほっとする。ほっとしながら、あたまはまだモーローとしてるから、してるくせに、日常がここんとこおろそかになりすぎていたことをきりりと思い起こし、ちょっとだけ不安になる。
こんな不安では、シアワセを邪魔するほどではないけれどね。悪魔みたいにわらってねむりにおちる。
5月7日 土曜日
「帰らなくちゃ。」
朝方は曇っていて雨さえぱらついていたのに昼にむかって歩いているうちにどんどんと雲が消えゆき晴れ間が広がっていった。
今日もまた風邪薬のせいで世界がはっきり見えない。倒れこみたいほど眠たいくせに「こんなにいいお天気では閉じこもってちゃもったいないわ」と知らない誰かにささやくように自分が自分にささやくので、歩くのをやめない。
ところでわたしは昔大好きだった歌のCDをなくしてしまった。
シングルCDでまだ縦長のやつだった。
また急に聴いてみたくなったのでおおいに探してみたのにみつからない。
いまとてもあの歌の気分なのに。
めぐりめぐってあの気分なのに。
「それよりも。そろそろねむったほうがいいわ。」
くらくらする。この薬はやはり効きすぎる。早くよくなりたいようなないような今はひとまずお布団にくるまろう。
5月6日 金曜日
のどを痛めてしまった。
用心のために風邪薬を呑んだら、一日中世界がぼやけて見えた。それもまあたまにはよかろう。ただ歩いている最中もはやく横になりたいと余計な願望が始終やかましくてしょうがないのがかなわない。
雨の日はただでさえふつうよりも眠気がつよくなる。
おおきな声を出すのもままならなくなった今日のわたしは傍から見ると不機嫌(な果実。奇妙な果実)。でも残念。ほんとうはとってもご機嫌なの。昨日までのこととか、明日からのこととか、不安がないなんてことはないけど、今日をあいするというのに、それをするというのに、自信がないわけではないから。とてもありがたいことに、それを、いろんなひとたちから教わっているから。
正々堂々と「ハッピィ(な果実)」になってもいい。なれるはずだ。そうみたい。
5月5日 木曜日
帽子はかぶらなかった。
とりだす間もなかった。海と、砂浜を前にして、
「靴、脱ごっか。」
うなずく間もなくもう靴下まで脱いでいる。
日はすでに傾きかけてるけどでもまだ笑ってる。
ねむるのが惜しくて、たまらなくて、昨晩もあまりねむらなかったの。
それでこんなにはしゃいでいる。
きっと帰り道、一人になったとたん、うとうとが始まる。ふっつり途切れる。それで揺られ揺られて、降りるべき駅に着いたらはっと目が覚める、あの「奇跡」が起こると信じて…。
はしゃぐのをやめない。やめるもんか。
「くたびれたでしょ? あちこち連れまわしちゃってゴメンネ。」
と言うけれどこの子は心のなかじゃ、絶対に、わるいだなんてぜんぜん思ってない。
どうしたら、何をしたら、わたしが楽しがったり、嬉しがったり、喜んだりするのか、よくわかったうえでの確信犯なのだもの。舌を出してるの、見える。
でもね、そのビスケットみたいな甘くてカリッとしたことばが癖になりそうだよ。
「ねむれない日々」が続くと言っていた。
「だったらね。」
今みたいにね、ねむるのが惜しくてたまらない今みたいなときにこそね、笑って。
くすぐったいときみたいに、笑って。
笑って、過ごそうね。
どれだけ続くかわからないから、今を愛する気持ちもまた、いっそう募るものね。
笑って。
お日様にもそれが似合う。
(5月4日 おまけ 客寄せパンダということばがありますが、中国もパンダを送ればいいってものじゃないでしょう。そして台湾もパンダを受け容れないだなんていけずなことを言うことないでしょう。パンダだってパンダにだって意志が。あるのかな? えー、うそ!)
5月4日 水曜日
「ごめんねぇ。ありがとね。」
と手を振って改札口の向こう側に吸い込まれてゆく。
友だちのうしろすがたがいとおしかった。
彼女は、昨晩、終電を逃してしまった。
電話を切ったあと、いつか招こうと思っていたこの部屋に、彼女が今夜やってくると思うと嬉しくなった。気むずかしいほうではないけれど、わたしには秘密がたくさんあるから、わたしのこの部屋にはわたしが大好きでかつわたしを大好きな人間しか入れたくない。彼女はそういう意味ではうってつけで、加えてわたしは来週までに仕上げなければならないレジュメ作りにちょうど飽き飽きしていたところだったので、うきうきしながら駅まで彼女を迎えに行った。
一晩中、きゃきゃっとはしゃいだ。舞台が舞台だけに、ひとさまには恥ずかしくって聞かせられないようなことを、お喋りお喋り。小学生みたいだ。小学生はでも、飲まないよね。缶ビールに、缶チューハイ。
あかるくなるころ枕を並べてねむった。気むずかしいほうではないけれど、だれとでもぐっすり眠れるわけではない。手をのばせばすぐに触れる。彼女のからだのそばですうっと眠った。抱きしめられてもかまわないと思った(笑)。
次に目を開けたら、すっかりあかるかった。もう起きていた彼女と目が合ったらクスクス笑った。こんな夜だった。こんな夜をすごせる。女の子の友だちって、だから好き。
5月3日 火曜日
明日は友だちが海に連れていってくれるというので、日焼け止めクリームと、あと帽子を買った。春と思っていた風がだんだん夏のような気配を漂わす。
昨日はねむらなかったから、今日は一日中、ねむたかった。それでも、明日には海を見られるのだと思うと、ねむたげな体が恋心をたたえた体のようにざわめきだす。わたしは海がよっぽど好きなのかもしれない。
5月2日 月曜日
安部公房の『けものたちは故郷をめざす』を文庫本で読みながらときどき顔をあげるたび目に入ってくる雨の降りそうな曇り空がまばゆい。
「けもの」たちは、けっきょく、「故郷」になんて辿り着けない。結末がそうだというのは知っている。知っていても、「めざす」この小説に夢中だ。「めざす」場所があるということを思う。「めざす」場所があるような気がするだけで実際にはそんな場所はどこにだって存在しないのかもしれないということを思う。
連休に挟まれた今日のような日だと、図書館もしまるのが早い(やってるだけでありがたい)。
五時に追い出された。
待ち合わせは六時半だからへんに時間が余ってしまう。安部公房は鞄に忍ばせそのへんをぶらつく。
今日はこれから師匠に会う。気が昂ぶる。師匠ときたら、ただそこに在るというだけで、わたしを刺激する。こわいぐらいだ。そのこわさが緊張にしか繋がらないときもあったけれどこのごろはとても心地いい。快感に近い。「ひらかれる。」そう思えるからだ。
ひらかれたい。いつも求めている。わたしは、わたしをあますことなく生ききりたいのかもしれない。まだ程遠いけど。わたしはわたしがわたしであるとはどういうことか、そんなことばかり考えてしまう。
5月1日 日曜日
歩いた。
とくに何の予定もない休日というのは気持ちがよくて、目が覚めてすぐにしたのは、昨晩、愛をもってしたためた手紙を、ポストに投函すること。うちからいちばん近いそのポストは、だいじな手紙を出すときにはうってつけ。目の前がお花屋さんなのだ。お花に見守られながらなら、込めた思いも、しかっと届きそうなものじゃない?
歩いた。
必要ならば、お花にも見守られてるつもりになれる。わたしはいよいよおめでたい人間だ。幸福を感じるためにならばどんな些細なことをも見逃すつもりがない。
どんな小さなことからも幸福を感じるための種を見出す。日々そういう特訓をしてるのよ。