日々の温

 トップに戻る  昔のON日記  ON日記現在


10月30日 日曜日

現実に対して、情けないぐらい抽象的な考え方しかできない、おなじ年頃の人たちと比べて圧倒的にわたしは。
「メルヘン」。
揶揄された。
「ナルシスト」。
揶揄された。
どちらも今のわたしをあらわすのに非常に優れた表現だと思う。
「よのなかの仕組みという仕組みを、肌とまではゆかずとも、せめて『それはあるものだ』と知るためにも…そろそろそのお城から出て来てみたほうが…」
雲や霞だけが材料の夢物語は妄想めいている。夜眠るときに見る夢ならばそれでも構わない。だけどわたしは、わたしの夢を、紙の上に文字で刻みたいと思うから。妄想ではいけない。いけないのだ。

「『書く』ために経験を求めるなんて。」と思っていた。
痛くもないのに痛いときのことをわざわざ思い出しながら歌っているひとみたいに嘘っぽいから見下していた。
恋の演技の為に恋をしようとするのは姫川亜弓ほどの鬼気迫る才能を持った女優にだけ許されることだと思っている。
雲や霞だけがわたしの材料だった。いっそお城へ幽閉されたかった。
「鍵のかかっていない檻の中に自分で入っていって、そして泣き喚く。『出してくれ! ここから出してくれ!』 きみのしていることは、そういうことだ。」
空はわたしの想像以上に透き通った水色。
わたしは紙の上に。紙の上に夢を刻みたいのだ。本当に言いたいこと。本当に言いたいことが、火照ってる。語られるのを待ちくたびれているモノガタリたち。わたしのなかで疼いている。わかった。わかったわ。出してあげる。出してあげるから。
「出るわ。」
だって紙の上に刻む夢は、現実に根ざしていないとね。だあれも振り向いてくれない。


10月29日 土曜日

そして迎えるは修士論文中間報告会。
「あなたは、おそらく混乱しているのね。」と、わたしの取り組みをよく知る先生は見破る。
「あなた、ではなくて。李良枝そのもの、を。読むの。」


そうだ。わたしは、李良枝そのもの、ではなくて、李良枝を読む・読みたがるわたしについて、ずっとずっと考えている。

あの春の午後、「かずきめ」を読んだときに、わたしは、李良枝に、ではなく、李良枝に興奮を覚える自分に、出会った。それ以来、ずっと。
だからわたしは、李良枝の小説を読んでいて、李良枝が見えていなかった。わたしの目が見ようとしていたのは、李良枝の小説に投影した自分自身の願望。わたしが聴きたかったのは、「何処にも所属しない」ことを、「称える」物語。
われながら見事な離れ業(?)をつかってしまったものだなあと思う。なんたってわたしは、ここ数ヶ月間のわたしは、「何処にも所属しない」に、所属しようとしていた。のみならず、所属できた、と舞い上がっていた。
「何処にも所属しない」に所属できたので永遠だ、なんて思っていたのだ。
参った。わたしがこれほどまでに何かに所属したいと切望していたとは。
わたしは…ジプシーもどきの気分だった。あるいは、妖精のような羽が、自分にもあると思い込んでいた。その羽で、贋物の羽で、ふわふわ、宙を舞っていたつもりがほんとうは…
ただのお遊戯だった!

小説と、修士論文と。
いずれも、「書いて」ゆく、その過程の只中で、わたしは、わたしに関して、驚くほどぽろぽろ、ぽろぽろと目から鱗が剥がれゆく。
飽きない。自分のことって全く飽きない。呆れこそすれど、全く飽きないのだ。分かっている。他の人にしてみれば取るに足らないだろう。だがわたしにしてみたらこのわたしこそが生涯かけて追究してゆくのに最上の素材なのだ。
わたしは、ただ、わたしにしかなれない。
噛み締める。この素晴らしさを。



10月28日 金曜日

ヨーコさんが凄いなと思うのは、ヨーコさんはあくまでもヨーコさんであって、決して「ジョン・レノン夫人」ではないからなのだと思う。ジョン・レノンといえば、あれだけ有名なのに。強烈な個性を持った人物なのに。ふつう(・・・)()()なら、ふつうの女ならほとんど間違いなく、ジョン・レノンの奥さんになれば、「ジョン・レノン夫人」と呼ばれるがまま、なのではないでしょうか。
ヨーコさんが凄いなと思うのは、ヨーコさんはあくまでもオノ・ヨーコであること、すなわち、自分自身で在るということ、を、ただ貫いているだけだということころ。だからってヨーコさんは、だれだれの奥さん、だれだれのお母さんとして扱われるのはいや、わたしはわたしよ、と悲痛なまでにもがき苦しんだあげくに、わたしはオノ・ヨーコ、と自己主張しているのではない。ヨーコさんは、初めっから、ヨーコさんなのだ。ヨーコさんでしかないのだ。たまたま愛した男がジョンレノンという有名人であっただけなのだ。強烈な個性を備えた有名人。だがこの有名人が、より個性的になってゆくのは、かれがかれ自身で在るということの素晴らしさを、ヨーコさんによって、知っていってからだった。

ただ、自分自身で在ろうとする人間と人間と、が愛し合う。ジョンとヨーコの物語の核はそこなのだ。
「空の美しさにかなうアートはない」とヨーコさんはそう言うけれど、自分自身で在ろうとし続ける強さにかなうような人間の強さも、もしかしたらなかなかないのかもしれない。

わたしはわたしだ。初めっから終わりまで、そうでしかない。わたしがわたしであるということ。わたし(・・・)を極めるということ。それがしたいと思う。それをしなくてはこの生を充実させられない。と、こう思ううちは、してゆくしかない。し続ける気持ちを投げ出さないためになら、たっぷり泣いたっていい。と、こう思えるのなら、たっぷり泣くのもよしとしよう。


10月27日 木曜日

赤くぷりっとした海老を真ん中からまっぷたつに割る。上半身を丸ごと、お箸で掴んで口の中へ放り込みむしゃむしゃと食べていたらお皿のうえの海老の下半身がひくひくとまだ生きているのが目に入った。脳みそが喰われたというのにまだ生きようとしている。
目覚ましが鳴ったのはそんな夢を見てる真っ最中だったのだ。それにしても瞼は開くのに目が覚めた気はとてもしない。
その前にもたくさんの夢を見た。とても頭が良くて生き様も綺麗な女の子と友だちで、友だちである彼女にわたしは言うのだ。
「こんな思いをするぐらいなら…、やめちゃったほうがいいのかしら?」
半べそをかいたわたしを彼女はふつうの顔で見つめている。呆れたり怒ったり慰めようとしたり優しくしようとしたりなどしない。
目覚ましがまた鳴る。もう五分も経ったの?
わあっと声を出して泣きたくなった。一分間って、短い。
舞い上がっていたのだ、わたし。舞い上がってた。ふわふわ、ふわふわと。浮ついていた。
今の気持ちときたら、孔雀の絵で金賞をとった翌年のおなじコンクールで努力賞だったときみたい。
甘く見てたわ。
足を。両足を、つかまれる。ばたりと倒れたら砂だらけになった。鼻の頭が痛い。砂の味。あの海老の味と似てる?どちらの夢が先だったのかも分からなくて。
「立ちなさい。」
声が聞こえる。「立ちなさい。そして、歩きなさい。」
彼女の声なの?
「お婆ちゃんになっても書きたいって言っていたじゃない。頬をばら色にさせてそう言ってたじゃない。」
甘く見てた。
分かっただけでもありがたいじゃない。立つわ。そして、歩くわ。決まってるじゃない。


10月25日 火曜日

ジョンレノンが、
I read the news today
きょう、新聞で読んだんだ」
と、うたいだすあの歌。
むかしから、その歌が流れてくるたび耳を塞ぎたくなるほど怖くなった。
あんまりにも怖いものだから、どういうことをうたっているのだろうと歌詞カードをめくる。
英語はよく分からないので日本語訳を読むのだけれど、わたしを恐怖に駆り立てるような内容がうたわれているわけではないのだ。
強いて云えば、「Id love to turn you

ぼくはあなたを目覚めさせたい」
と云う部分が、わたしの、多くの人もそうであるように、自分の住む世界、ひとつの閉じられた世界こそが全てだと思い込みながら生きている者の、眠りながら生きている者の、瞼を開かせようとしているから。だから怖いと思うのかもしれない。
眠っているほうが楽なのだもの。眠り続けていられるのなら。
しかもこの歌の題名は「A day in the life」なのだ。

小説を書いてももう誰も、“上手に出来たね”とは、云ってくれない。
むしろ“ふざけんな、泣き言云ってるんじゃない”と云われる程になった。

自分のことを、ただ書くということ。
わたしにはなんと難しいのだろう。“自己陶酔するな”“自分を自分から引き剥がせ”と人は云い、“これでも精一杯そうしたつもりだ”と心で思い穴があったら入りたくなった。
小さい頃は人の顔色ばかり伺っていた。人気者が羨ましかった。自分のいる場所をその在り処を求めた。
たくさんのひとたちに、素敵なひとたちに、受け容れてもらいたかった。褒められたかった。可愛がられたかった。そのために、自分にできることはないかと捜した。

そのために、し続けてきたことだ。そのために、し続けてきた筈なのに、いまやわたしは、わたしに“泣き言云うな”と云ってくれるひとがなくては、正気を保っていられないらしい。
わたしは小説を書きたい。

これを手放すと、わたしは、わたしでなくなるような気がする。どうしてだろう。
わたしが先か、小説が先か、分からなくなって、困る。
何がなんだか、分からなくなって、困る。
それこそ、思い込んでいるだけなのかもしれない。
自分で勝手に、分からなくなりたいだけなのかもしれない。
わたしは、わたしを書きたいのではなくて、わたしの小説を書きたいのだ。
でも、それを。
それをするにはどうしたらいいのか、今はまだよく、分からない。

これが、わたしの人生のある一日に思っていたことだなんて。これ以後の人生次第で、意味が変わる一日だ。怖い。



10月24日 月曜日

モノガタリが泣いている。
ぽろぽろ泣いている。行かないで。わたしの唇が叫ぶ。行かないで。

このままでは…

わたしの、わたしのなかで、
語られることを待ち焦がれているモノガタリは、

語り手であるわたしの、わたしに、

愛想をつかして、

逃げて行ってしまいそうだ。
逃げて行く。

わたしのこの綴り方では、モノガタリを活かしきれていない。

逃がしてたまるか。
まだまだ続く。続けるのだ。



10月21日 金曜日

春を告げにやってきた旅行団の一団の末娘のような微笑みとあと小生意気さとをたたえて、わたしは告げるのだろう。ほんとうに云いたいことはとてもシンプル。“だれしもが、自分が自分でしかないがゆえに、くるしみもすれば、よろこびもする”……。

その村でその年齢まで成長した少年はその眼で自分の根を見たことがないから…ないからこの羽が羨ましいのね。


期待し過ぎてはいけない……。
わたしが望むような反応を、ひとがしてくれるとは限らない。
いまは日本国の片隅で思う。

作品に関して、という意味ではなくて。

あなた(たち)が望むような反応を、わたしももうしないだろう。


サヨナラ、バイバイ。
しあわせでね、などと願うこともしない代わりに、ふしあわせになれ、などと呪うこともしないから。
すきでもきらいでもないとはこういうことなのね。
知らなかった。


おばあちゃんがとっておいてくれた、五歳のときのわたしのお絵かきを、一年後の六歳のわたしは、一枚一枚、破り捨てていった。


ごめんね、おばあちゃん。

みんな、取るに足らないのよ。
“上手に出来たね。”
いつまでもおなじところで云ってられないのよ。



10月20日 木曜日

薄紫色に染まっているのが雲なのか、空なのか。よく分からない。
ただそれが、頭上に広がっているものである、のだけは確か。


髪を切る代わりに、眉毛を剃ってしまった。
ただでさえ薄くてまばらな眉毛を。
髪が伸びた。夏以来髪は切っていない。伸びた。切りたい。
眉のない顔で思った。

夜が明けようとしている。
わたしは最後の一行を打ち込んだ。

日付を入れた。

18 October 2005


夢でうなされる。まだ駄目だ。まだ足りない。まだ云えてない。まだ云い過ぎだ。まだ削れていない。
まだ(・・)終わって(・・・・)いない(・・・)


だがわたしはこうも思っている。これでやっと……、


             
これでやっと、以前の作品を、小説になろうとしてなりきれていなかったあの作品を、完全に葬り去ることができる……

頭上に広がる薄紫色にしばし酔い痴れたくなる。
その夜八時からのクラスでわたしは印刷したそれを配布する。
まだ(・・)終わって(・・・・)いない(・・・)

けれども。

眉も描いた。

あとは、あとは何を書けばいいの。
手帳をめくる。最後の頁に書き込んである。

私は一番美人だったわけでも、一番才能があったわけでもありません。ただ女優の仕事をやりたいと他の誰よりも強く思っていたのです。

――マリリン・モンロー

2005/09/15、ほぼ一ヶ月前のわたしの文字。
他の誰よりも…?
いまも、思っていたところよ。

まだ終わってない。まだ。



10月16日 日曜日

時が来たらぼろ雑巾のような格好のまま出掛けましょう。
着飾るのはやけに照れくさいのです。

雨が続くけれど、哀しい気持ち続かない。
秋が深まるけれど、春のごとき笑みがこぼれてきます。

もう少しあと少し。




10月14日 金曜日

朝焼けが綺麗。

宵っ張りなあの子にも教えてあげる。
“薄い薄い赤の雲が浮かんでるのが見える。きれい。”
すぐに返事がきて頬がゆるむ。

ほんとうに空が化粧を施したみたいな艶めかしい朝焼けだったので。
宵っ張りの朝寝坊には眩しすぎるぐらいの。



10月13日 木曜日

胡坐をかいて、それから、足の、裏を。こぶしをぐうと押し付ける。右と、左と。
からだのなかの、血の巡りが、とどこおるとよくないから。よくないことばかりを、考え出したりしてしまうから。

きょうは、歩いていたらお月さんが空にいた。
雨の日が続いたし、十日前は新月だったから、お眼にかかるのは随分ひさしぶりなような気がして。
半分よりもほんのわずかに膨らんだ月。
すこしずつまあるくなってゆく。
すこしずつ涼しくなってゆくわね季節も。

胡坐をかいた、そのまんまの格好で眼を瞑るの。右と、左と。瞼の裏ではあんまり関係ないわね。
“ひとり夜をかも寝む”
だれの唄だったのかしらね。頬がゆるむ。
夢のなかの大冒険の相手はそりゃあもう素敵なひとでした。

夜があけるまえに。夜があけるまえに。うれしいことばかり考えていよう。



10月11日 火曜日

蠅は甘い蜜のなかで死を迎える。ヴェトナムの諺。

わたしが喋りだすと、息を呑むひとがいる。遠慮がちになるひとがいる。わたしにそのつもりはなくとも……わたしにそのつもりはない筈だ。
これを隠れ蓑にしてはいけない。これを。

わたしは喋りだす。
そう。
わたしは、社会や歴史や…それらを反映させなくてはと思いながら、話そうと意識しているのではない。
だって。
わたしは、わたしそれ自体が、すでに社会や歴史の一部であるのだと知っている。
たとえ意識しようとしなくとも。
わたしが、わたしについて真剣にとりかかり、声を出すのなら、
すでにわたしは社会や歴史をも雄弁に語っていた。

個人的なことは政治的なこと。

入れ替える。


政治的なことは個人的なこと。

わたしはそれを実感する。わたしを、政治的だと感じるひとがいれば、それもその筈。わたしはとても個人的なのだから。そう。自閉的なほどにわたしは個人的なのである。

息を呑むのは、わたしが「日本人ではない」からでしょう。
遠慮がちになるのは、わたしが「在日台湾人」だからでしょう。
どうもありがとう。でもね、だからってわたしが莫迦なことを言い出したら、ちゃあんと叱ってくれなくちゃ……叱って然るべきなのよ。あなたたちを、わたしのほうがよっぽど、分かろうとしていないのかもしれないのだから。それで駄々をこねているだけなのかもしれない……!

ああ。わたしはこれを隠れ蓑になんかしない。したくない。「所詮、日本人にはわからない」だとか「どうせ、マジョリティーには伝わらない」だとか。なんという傲慢。なんという驕慢。
わたしには「日本人」のことがどれだけわかっているの? 「マジョリティー」のことがどれほどわかっているというの?

「マイノリティー」であることにすべてをアイデンティファイするという態度。

あなたたちの敵はあなたたちを抑圧してきた「マジョリティー」であるのに違いない。だけどもあなたたちのあげた声に真剣に耳を傾けようとするのもまたあなたたちが「マジョリティー」と指す集団に属する者たちであったりする。あなたたちが躍起になって叫べば叫ぶほど、あなたたちを「虐げてきた」という罪の意識に苛まれた心優しきかれらは、あなたたちがより自由により大きな声で叫ぶことのできる場所を空けてくれるようになるかもしれない。

それはひょっとしたら甘い蜜なのだ。いったん翅を浸したら二度と宙を浮くことが出来なくなるかもしれないのだ。

わたしは喋りだす。注意深く……聞く耳持たぬ者よりも危険なのはわたしを甘やかす者…言いきかせながら。ほんとうにしっかりと踏みしめていないと、あっけなく、滑り落ちそうになる。ずっと居心地よくいられる場所へ。甘い蜜の中へ。わたしは…宙を忘れたくない。


「ふつうの日本人にだって色々な悩みがあるんです!」
ふつうの日本人でないから悩んでいる、というふうにだれが述べていたというの? わたしはかあっとなった。かあっとなったのは、そう云われたことが横っつらを殴られるような衝撃だったからだろう。

個人としてのわたしたちは、だれもが、痛い思いをしている。だれもが、特別ではない。

アイヴ・ガッタ・フィーリング、フィーリング・ディープ・インサイド……エブリバディ・ハド・ア・ハード・イヤー、エヴリバディ・ハド・ア・グッド・タイム……



10月9日 日曜日

細かい雨の降るなかを傘を挿さずに歩いているから、始終、霧吹きでぷしゅぷしゅ飛び出てくる水を浴びてるみたい。夜だ。わたしはすこし酔っ払っていて、でもそれはお酒のせいではない。友人たちとおおいにはしゃいだあとの余韻だ。友人たちとお酒を呑んではしゃいだあとの…。

ふたりと待ち合わせる前の夕暮れの頃、雨は上がっていた。空が紫色だった。

紫の空に見とれてたちどまった。雨水を吸い込んだ土の濡れた匂いが足元からたちのぼる。白い猫が一匹、脇を通りすぎた。ひとが云っていた。“ここから、ここにかける感じが小動物に似ているね。” 額から鼻のあたまを指の腹で撫でながら。

―あんな感じってことかしら。


わたしをじいっと見つめる猫の、額から鼻にかかるあたりを、見つめながら思った。
夜になってあの猫はどこに行ったのかしら。

わたしはおうちに帰ろう。おうちに帰って、やりかけのこと、書きかけのもの、また取り組もう。まだまだ取り組もう。よほどのことがないかぎり、立ちどまってなんていられない。今までもこれからも。



10月5日 水曜日


この世にあるとさまざまなことを感じる。二十の半ばまで生きたぐらいのわたしでそう思うのだから、この世にあるということはたえまなく何かを感じ続けることであるのに違いない。
感じる、ということに関して蓋の出来ない性分の者にとっては、ことばの働きは、ひどくもどかしいものである。感じたことのうちの、ことばで言い表すのが可能な部分なんて、ごく限られている。ことばで言い得る部分など、ひとひらの膜ほどにも薄い。

私は一つの言語しか持っていない、ところがそれは私の言語ではない。

世界に名を馳せるぐらいの哲学者の言う事は、洒落ていて小気味がいい。日本語に翻訳されたかれの著書に、ぼおっと眼をとおしている。

言語こそは、私の苦痛を端から端まで横断しているもので、そして私の情熱や欲望や祈りの場を、私の希望の召命を横断しているものである。


哲学者たる存在は、「自己の洞察に普遍的な原理としての価値を与える」手腕を持った者のことだ。だれもがあれこれ感じたり思ったり考えている。哲学者はそれに身を任さない。ことばを手綱にそれらの根本を成すものを解明しようと試みる。その試みが、大勢の人間の眼の鱗を剥がせれば、その名は、世界に響き渡ったりする。
かれやかのじょの名前や考え方は、海を渡り、それぞれの場所に、それぞれと辿り着いたときには、かれやかのじょが、自分自身ではよっぽどの縁でもない限り、進んで習いおぼえようとはしないであろう別の言語に翻訳されている。

自分の話しているたった一つの言語が自分のものではないと言うことによって、私はその言語が自分にとって異質―外国語―であるなどと言ったわけではない。ここには微妙な違いがある。

かれの思想は、よほど多くの人々の眼の鱗を剥がせたのだろう。おかげで、東アジアのとある地域の言語、日本語にも訳された。


日本語がわたしの舌に住み着いてから二十年以上の時が過ぎる。大学に上がった頃からここに至るまで、ちょろちょろと思い立つたびに勉強はしてきたものの、いまだにあまり中国語はうまくなっていない。語学の才があればまた違ったろう。わたしにそれは残念ながらなかった。それでも、簡単な中国語なら、聞き取る分にはほとんど問題がない。子どもの頃から両親、とりわけ母親の話すそれを聞き続けてきたからだ。だが、いつまでたっても、簡単な中国語ですら、すぐには出てこない。両親や母親に中国語で話しかけられてもいつも日本語で返事していたからだ。

その女性は、日本語が母語である生徒を相手に中国語を教える仕事をかれこれ十年近く続けている。日本語と、中国語と、あと台湾語と。かのじょが家で話すとき、いつもそれらがまざりあっている。

あなたの状況と、そっくりよ。

中国語で彼女は言った。

わたしの娘と、あなたはそっくり。
かのじょの日本で育った娘さんもまた、簡単な中国語ならほとんど聞き取れるが中国語を話すほうとなるとまごついてしまうことが多いという。

あまり意味のないことだと分かりながらわたしは、中国語が舌に住み着いていたほうの自分の人生を想像する。このような物思いは、自分が人生において初めて夢中になった異性が、あのひとではなく、そのひとだったのなら…と考えることとどこか似ている。

 

 


10月4日 火曜日 

 


クローバーを、四つ葉のクローバーを見つけた。

野原を這いつくばって捜しだしたんじゃない。本をめくっていたら、押し葉にされた四つ葉のそれが、パッとあらわれたのだ。雨上がりの総武線の中でだった。曇り空はあかるい。
本は、遠くの町の古本屋から取り寄せたものだった。

たいそう幸せな気持ちにさせられた。

待ち合わせた友だちと、そのへんをぶらぶらと歩いた。金木犀の香りがときおり風にのってやってきて風はいつも鼻のあたまを軽くさすっていく。雨上がりだからか空気はしっとりと濡れている。

珈琲の香り漂う小さな喫茶店を見つけてぶらぶらと入った。モカが、一杯四百五十円也。素晴らしき味也。

好きな友だちと喫茶店の類に延々居すわっているのが、わたしはつくづく好きなようである。


たいそう幸せな気持ちだった。

そうだたいそう幸せな一日だった今日も。ねむるのがまた惜しくなってきて困る。




10月3日 月曜日

 

ローズヒップのお茶を呑んだ午後。胸の前に留めたブローチを可愛いとかのじょが褒めてくれたのでわたしはかのじょの着ていたブラウスが素敵だと思っていたのに云えなくなってしまった。

おんなのこというのは自分が褒められたいがゆえに他のおんなのこのことを褒めるものだ。

それになってしまうようで云いそびれてしまった。まあしかしローズヒップのお茶は甘いというよりもきゅっと酸っぱいものなのね。腹ごしらえをしたら授業に出掛けましょう。
長く学生を続けていられるわたしたちはラッキーなのです。

手に入るものは 何でも喜んで受け容れなさい。でも、それ以外のものを望んではいけない。

―アンドレ・ジード

そこに畑があるのなら、うしろめたく思ったり遠慮したりする暇なんかない筈よ、耕せ。おおいに耕すのだ。


授業が終わったらとっぷり日も暮れて肌寒くすらあるの。手提げ袋の紐が、ぷつ、と、とれてしまった。

本を詰めすぎた重みのせいで、だろう。
本はみんな、図書館のもので、

どれもみんな、夏休み前に借りたもので、

実はどれも、返却期限が三日ばかり過ぎていた。

手で提げられなくなったので、胸に抱えて図書館まで。どうしてだろう、なんだかとても胸が弾む。


 

10月2日 日曜日

 

虹は、同じようにはかからない。

ぼおっと空を見つめていたらあっというまに日は暮れてゆく。手と手をとって、おうちに帰ろう。
(明日は好きなあの娘の誕生日。)

わたし、奥様になったらお買い物に出かけるときには日傘を挿すようになったりするのかしら。そしたら丈の長いスカートをはきましょう。裾のところに綺麗な色の刺繍の入った夢の色ちらつくスカートを。
“マダム、今宵はわたくしと夢でも見ませんか?”
粋な紳士が声をかけたりして。
奥様はでも旦那さまに首ったけ。だけどときにはお花だって摘んでもいいかもね。

娘時代にはいつも自分から恋を仕掛けたものだけど。(失敗だらけ。)
奥様になったらつつましく据え膳だけ頂きましょう。(許してね。)

ぼおっとろうそくの炎を見つめていたらあっというまに夢は走り抜けてゆく。手と手をつないで、床にもぐりこもう。

(毎日がわたしたちの記念日。)

雲は、同じようには浮かばない。

なのに見つめていると懐かしくなるのは何故かしら?

 

 


9月末日

硬くなった皮を、一枚、また一枚と、剥ぐ。
丁寧に生きるとは古くなった皮を剥ぎ、どんどん新しくなってゆくことなのかもしれない。そして、ほんとうに必要なもの、ほんとうに大事なものは、剥いだ皮の奥の芯、そこに宿っているものなのだろう。

ふと思い立ち、いつかの春先に引いたおみくじを焼いてしまおうかと思った。花占い。まにうけたい・まにうけたい、と呪文のようにつぶやき、願いを託した。引き出しの奥に大事にしまってある筈だ。そう思って引き出しを開けて、しばらく捜してみたが、見つからない。別の場所にしまい直した記憶はないのでおかしい。それとも…、それともそんなもの…、初めからなかったのかしら?

途方に暮れるほどでもない。頬杖をつき、用意したマッチと灰皿を指の先で撫でる。

古くなったとはいえど皮は、皮は本来、ひと繋がりのおおきな一枚だったのだ。続く。わたしは続く。過去の供養が終わらぬ限り、身軽にはなれない。あかるい未来を夢見たいの。ならば、眼を開けなくちゃ。亡霊は恐れるほどしがみついてくる。「今」を味わうのにもちょっかいを出してくる。

言葉を、涎らしながら生きている。どうしようもなく涎れてくる。声が枯れたあとでも涎れている。

だれの胸の底にも、熱情はあるものだ。それに、ね。火をつけたい。眠っている暇などあるものですか、と、火を、ね。火を、つけたい。

続く。わたしは続く……



9月末日

一睡もしていなかった。

顔を洗う。化粧水をはたき、日焼け止めのクリームを大雑把に撫で付けて、朝の東京駅へと向かった。大阪から夜行バスでモンが戻ってくるのを出迎えるためだ。山手線が遅れたので待ち合わせ場所の喫茶店にはわたしのほうがあとに着いた。

肩を並べて朝ごはんを食べた。


吊り眼のような垂れ眼なんだ、と、モンは自分の眼を指してそう云う。

凛々しくて、綺麗な眼だと思う。この眼を前にすると、自分はもう長いこと、この眼の持ち主に惚れ込んでいるのだと改めて気づかされる。
モンは、このひとは、わたしが自分に根づいて(・・・・)いる(・・)と分かっているから、わたしが余所で何をしようと動じない。たいした自信だが、事実根づいているのだし、いちいち動じないでいてくれることは大変有難い。わたしのような、現実に根を下ろそうという気がなかなかなくて、雲や霞と同質の夢物語を、手で触って掴みたいとばかり考えているようなおんなには、このぐらいのおとこでないと、手におえないのではないかと思う。

コーヒーを啜りながら、ここ二日三日と、ビートルズばかり聴いていたのだと告げる。

「わたしはよくよくジョンを崇拝していたから。よくわからないなと思い込んでいたの、ポールのことは。避けていたのよ。自分(・・)()()()聴く(・・)よう(・・)()なって(・・・)から(・・)―まだ数日だけど―よくわかったのはね、ずいぶんと勿体ないことをしていたんだなあということ…」

吊り眼のような垂れ眼をほころばせるとモンは、テーブルの上にあったわたしの手をとり云った。そうだねえ。

わたしなど誰も相手にしなくなっても、このひとだけは、わたしを尊いものとして大事にしてくれるのではないか。そういう錯覚を、モンは、抱かせてくれる。物好きなひとだなあと思う。そしてわたしは、わたしのようなのを好くような物好きたちが、大好きなのだ。

考えてみればわたしには、わたしのまわりには、いつもわたしをうんと笑わせてくれるひとがあるように思う。わたしもまた、まわりのひとたちを、笑わすことばかり考えている。


楽しませあう。みとめあう。笑わせあう。抱きあう。

それを、ただ、したい。ただ、したいだけだ。