ON日記
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2月14日 水曜日
You
make me feel, you make me feel,
You
make me feel,
A
natural woman…
(Carole
King)
わたしの、もう一つの人生。のお話。
「わたしは、わたしの恋人と狭い台所に並んで立つ。彼女が包丁でキャベツを刻む横でわたしは、ジャガイモを茹でるの。彼女の二の腕に時折、額を軽くおしあてる。
ねえ、もしも、もしもの話よ。こんなふうに生まれていなかったら、自分はどんな男を好きになったと思う? わたしがたずねると彼女はキャベツを刻む手をとめて、考え込んだ。フライパンで油がぱちぱちと撥ねる。ジャガイモが焦げるそうになる。ひっくり返して、彼女がわたしの腕をつつく。
ねえ、質問の応えは?
キャベツを刻み出しながら彼女はゆっくり話す。
分からないわ。わたしには、この人生しか想像できない。そうでない自分の人生だなんて……。
彼女の短く刈り上げた髪に触れたくて困る。すぐに照れて照れると笑ってえくぼができる。
フライパンのジャガイモを茹でるぐらいしか、わたしに出来ることはないからあとはあなたに任せる。お皿はわたしが洗うから。グラスにビールを注いで一口啜る。食べてていいのに、とあなたは言うけど、ううん待ってる、と唇に泡をつけてわたしは言う。いつものやりとり。
あなたの部屋のプレイヤーは故障しているので、ウォークマンにスピーカを接続して音楽を流す。
あなたの好きな歌。キャロル・キング、リッキー・リー・ジョーンズ、忘れてられないレイ・チャールズ。
わたしが好きだったジャニス・ジョップリンもあなたは気に入ってくれた。だから、バレンタインの贈り物にはノラ・ジョーンズの新譜に緑色のリボンをつけてあなたにあげる。きっと気に入ってくれると思うわ。
あなたがわたしにくれたのは、綺麗なピンク色の瓶の香水。胸と胸のあいだに、しゅっと一吹き。透明な花の匂い。果実になった気分のわたしを、あなたが舐める。
『あなたはわたしが夢に見た女の子そのもの。柔らかくってふわふわで齧ると甘い蜜の味がする。ちびなのに獰猛で、怒るのにも泣くのにもためらわない。あいすることに正直なのよ。
でも、笑ってるときが一番いいわ。
あなたが笑うと、わたしも笑ってしまう。
ねえ、わたしたちってふたつでひとつなのよきっと。わたしがあなたでも、あなたがわたしでもよかったのよ。』
他人は他人よ、が口癖のあなた。他人は他人ね、を口癖にしたわたし。
あなたとなら、ひそかに愉しみましょう。すべすべでやわらかい肌と肌を、いつもみたいになじませあう。(ふたつでひとつ?)境界線がぼやけてしまう。
あなたが訊かないので、わたしは自分で喋る。わたしが好きになるのは、きっとこんな男の子。
こんな?
そう、こんな。と言ってわたしは、あなたの肩を甘く噛む。あなたみたいな男の子。
そんなひといるのかなぁ、とあなたは笑い、わたしも笑う。でもね、もしも、もしもの話よ。わたしがそういうふうに生まれてきたののなら、きっとわたしは、(あなたも知っているでしょう?)幸福になることに関して人一倍執念深いから、そういう男の子を見つけ出して、恋人にしたはずだわ。
(あなたを見つけ出して、恋人にしたのとおなじように。)
はにかむようにあなたは笑う。」
と、いうお話。
2月9日
驚いた。日記を最後に記した日付が、一月の九日。一ト月も日記を書かなかったことなんて、ひょっとしたら日記をつける習慣を持ち始めた十一歳のとき以来、初めてなのかもしれない。
書かずにはいられなかった。書かないでは眠れなかった。
先週末は、染織を習いに京都の大学に通っている妹の卒業制作展を観に行った。京都は初めてではなかったが初めてのような気がした。幾つかの寺や神社で、手を合わせ目を閉じた。
縁あって、この世で出逢った男や女たちを思った。彼らの行く先が幸先のよいものであるよう、祈っていた。そんなつもりはなかった。手を合わせ目をつぶる直前までは、そんなこと祈ろうとは思っていなかった。なにかに導かれるように私は、私によって喜び、怒り、哀しみ、愉しんだすべての男や女たちのおかげで自分もまた、喜び、怒り、哀しみ、愉しむことができたのだと涙ぐんだ。いやちがう。私は、私を喜ばせ怒らせ哀しませ愉しませてくれた男や女たちを、喜ばせる以上に怒らせて、愉しませるよりも哀しませ、深い傷を負わせたことがあったのを思った。触れるな。この傷を、おまえが癒せると思うな。私は、自分の残酷さに涙が出ただけだった。
それから、彼らの――その男や女たちの行く先は絶えず流れているのだな、流れ続けているのだなと思い、そうであれば私は、彼らにとって泡沫のようなものでしかないのだろうなと思い、彼らにとっては泡沫でしかないその私を、私だけが全宇宙のように思い込んでいる。ハッとする。
旅先にいるとどうしたって浮遊感が増すので――その夜、妹の寝息を聞きながら私は、日記帳を持ってくるのを忘れていたことに気付き、それでもとろりと眠気がおそってくるので、自分はもう日記を書く必要がないのかもしれないとぼんやり思っていた。