ON日記
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6月27日 水曜日
巫女として、また喜びの伝導者として、物語を語るかの女は、生を拵えだしているが、それは情報を与えているだけでも、楽しませているだけでもなく、また想像力を培い、それを広げているだけでもない。教育しているだけでもない。ただ技を実践しているのだ。
(トリン・T・ミンハ)
ライチのつるんと白い果肉に爪をたてると、いけないことをしているような気がして酔う。ライチの果肉から滴る汁で指が濡れると、千年前のことを思い出すのだ。黄い河の畔で足首の鈴を鳴らして歩いた。その鈴の音を、あざけるような声をたてて笑う女は柘榴に似ているという評判だった。鈴の音が止み、湖も入るのかと思われるほど巨大な金の器になみなみと満たされた白濁の湯が波打ちはじめる頃、入り口を麻の布で覆っただけの掘っ立て小屋のなかで、鮮紅色の花びらが水気を含んでよがりだす。子守唄をうたおう。千年にいちどきりの安らかな眠りを誘おう。あしたなど望まなくても夢は迎えてくれる。あしたを拒むのなら夢は更に残酷なあしたを引き連れてくる。
6月15日 金曜日
ものごころつきはじめている耳に、闇の中からいちまいの絵が浮かび出るようなぐあいに、言葉も来ました。前の世にお燈明の前に、ぼうと浮き出ている舟の形のおまんじゅう。
(石牟礼道子)
お祖母ちゃん子だったという。お祖母ちゃんに育てられたから、喋るのが遅いという。声もおおきくない。いつも囁くように話す。わたしの背や腹をさするときの、あやすような手つきも、お祖母ちゃんゆずりなのかしら。腹からストンと落ち着く。
私の母方の祖母の名は、銀蘭という。銀蘭は、よんど子を孕み、よんどとも産んだが、今、銀蘭の子は、この世にふたり、あの世にふたり。
母は嫁ぎ、叔母は嫁がなかった。母がわたしを産んだとき、叔母は十九だった。十一の歳の差のある姉妹のあいだには男の子がひとり。その、銀蘭の産んだ唯一の男の子どもは、既にこの世を去っていた。最初に産んだ女の子が一年ももたなかったのと違い、母の次に生まれた叔父は、成人し徴兵から帰りお嫁さんを貰ったあとで、いなくなった。お嫁さんの腹の中には叔父の子がいた。
銀蘭の末娘である叔母は、銀蘭と暮らしている。叔父の嫁である叔母も、銀蘭と暮らしている。その叔母は夫を失ってから一年もせぬうちに、子を産んだ。今年で十五歳になるその男の子は、銀蘭のいる家で大きくなった。
その銀蘭の家へ、銀蘭の娘であるわたしの母は、出かけていった。水曜日に飛行機で、出かけていった。あわてふためきながら、くるおしさをこらえながら、出かけていった。
「とっても親切にしてくださって嬉しいわ。」
と、銀蘭は云ったというのだ。「どなたなのかしら。嬉しくて、どんな風に感謝したらいいのか分からないわ。」と、叔母にむかって云ったというのだ。
銀蘭の末娘は、受話器越しの姉にむかって泣いていた。
銀蘭の家にあった古いアルバムに、赤ん坊のわたしを抱いている叔母の写真があったのを思い出す。叔母は十九だった。たった十九だった。叔母は嫁がなかった。ずっと銀蘭のそばにいる。足をわるくし、歩くことがままならなくなり、一人では殆どのことができなくなってしまった銀蘭のそばに、叔母はずっといる。
その頃の叔母の歳はとうに越えている。もうじき、母がわたしを産んだ歳に、わたしはなる。むかしふうに云えば、いや、むかしふうでなくとも、子の一人やふたり、既に産んでいてもおかしくないほど、身体としてはわたし、女として充分に成熟している。
産んだ子の産んだ子が、身体としての盛りを迎えようとする頃、女は産まれる前にいた場所を夢見始めるのだろうか。
銀蘭は、混沌とした、この世の掟で縛られぬ夢とうつつの境目のないほうへ。
生身の身体はひとつきり。この世の掟で、ひとつきり。
銀蘭の産んだ女の子たち――母と叔母のくるおしさは、電話線一本をつたって繋がり、海を越えて震える。そのあいだも、当の銀蘭は、この世の掟で縛られている者には見えぬ糸を手繰り寄せて、あやとりでもするかの如く、あっちに往ったりこっちに来たり。
6月8日 金曜日
金目のもの買って
乗りたいだけ乗って
食いたいだけ食って
ブタみたいに死んで
身内だけ愛して
全部顔に刻まれた
大人になる日を迎える
(YOSHII LOVINSON)
例の映画の看板の前をとおると、口から零れ落ちてしまう。「身内だけ愛してブタみたいに死ね」。そして、「身内だけ愛してブタみたいに死に」たくはないね、と思う。強く思う。思いながら、こう思うということは、自分こそが、「身内だけ愛してブタみたいに死」ぬという、愚かながらも「幸福」な人生を夢見ていて、そのような人生を生きられるのだとしたら徹底的にそのように生きてしまうのだろうと本能的にわかっているからなのだと思う。そして恐れているからなのだと思う。
身内、とはいっても、親兄弟のことだけを意味するのではない。
この頃、マナー講座に通う女性が増えているそうだ。立ち居振る舞い、食事の仕方、相槌のうち方、果てには、美しい微笑み方などを学ぶ講座だという。そうしたマナーをしっかり身につければ、シゴトしてゆくうえでも役に立つし、何よりも、「素敵な女性」になれるのだという。
「一度きりの人生だもの。もっと素敵になって、もっと愛されて、思いっきり輝きたい!」
(時代が時代なら、「素敵な」彼女たちをこそ守るために美しい瞳をした大勢の青年たちが空で尊い命を桜吹雪の如く散らしたことでしょう。)
クソクラエだ、と思った。わたしは、「素敵な女性」になるのを目指すぐらいなら、場末の酒場かなんかで若い男を軽やかにひっかけけるクソババァになりたい。
「成長したいね、レンアイでもシゴトでも」と喋る女の子は目がキラキラとしていて可愛らしい。(そうよね、一度きりの人生だもの)。輝く女の子たちの隣の席で一人安い珈琲を啜る私は、クソババァになりたい、なぞと思っている。どっちがエライとか、エラくないとかは誰にも分からない。「死ねばそれで終わり」。
花の夢をみた。青いロッカーのなかに咲いた花だった。それを摘もうとするわたしは、ベトナムの女の人が纏うような衣服を身につけていて、歳は起きているときと比べて十ほど、若かった。ペパーミントグリーンの封筒には想い人の綴ってくれた恋文が入っていて、花のそばに添えられていた。花は、都会の生垣で秋になったら咲き乱れるツツジの花のように濃厚なピンク色だった。花を、摘むことはできなかった。花に、切り口はなかった。花は、青いロッカーにじかに咲いていた。青いロッカーのなかで幾つもの根と根が、複雑に絡み合っていて、ちょっとやそっとじゃ、摘むことができなかった。見た目には可憐な花がいざ手折ろうとすると一筋縄ではいかない、というのに夢のなかのわたしは嘆息した。夢の外のわたしは昂奮した。
6月1日 金曜日
自分自身のことを振り返ってみると、子どもの頃は何かをみに行くときももっと力が抜けていたような気がする。ところが大人になると、そういうとき何かを求め出すみたい。リラックスしたいとか、癒されたいとか(笑)、無駄な時間は過ごしたくないとか。子どもは環境に波長を合わせるから、自分のみたいものをみるだけでいいし、興奮できる。求めているわけじゃなくて、ただ吸収しているんだ。
(細野晴臣)
深夜、ジョニ・ミッチェルの「夢の国」がながれだしたとき、腹の底が震えた。どうしたことだろう、嬉しい悲鳴。あまりにもものを知らなかったわが身を痛感し、恥じた。名前だけなら聞いたことのあるものを、それでも名前なら知っているので知ったような気でいることぐらい、愚かなことはない。
女のうたう歌が聴きたい。そう思って、あれやこれやと借りてきたもののうちの一枚だ。
ジョニは、人前で歌うことの楽しさと煙草の味を9歳で覚えたという。高校を終えるとすぐに、独学で身につけたギターを抱えてあちこちで歌い始めた。19歳で懐妊。生まれた赤ん坊は女だった。赤ん坊は養子に出された。ジョニは、娘のあることを世間に語らずに歌い続けた、絵を描き続けた。
「夢の国」に聴きいりながら、若いジョニを思った。「若くしてたいていのことを経験してしまった彼女…」という風に語られるひとりの女を思った。腹の底の震えはおさまらず、目はだんだんと冴えていった。
自分が、既に27歳であるのに驚く。老いてしまった、という意味ではなく。その正反対だ。大抵のひとは思春期の段階で受けるような衝撃を、27歳にもなって受けているという自分の晩生さに驚く。ジョニ・ミッチェルのことだけではない。私には、知らないことが多すぎる。本当に多い。眩暈がしそう。このごろでは一月ごとに一月前のわが身を振り返って「あおいな」と思う。「(一月前の自分は)これを知らなかったとは、あおい。あおすぎる」と。傍からすると、どんぐりの背比べ程度の変化だろうけれど本人にとっては大変な変化なのです。
何年か前、しょっちゅう一緒に遊んでいた友だちが、とつぜん、電話をかけてきてくれた。「懐かしいね」とはしゃいだら、「懐かしいなんて言われると、ちょっとさみしい」と笑っている。不意に、その頃の自分が「むかしの自分なんてのは恥ずかしいから、できるなら抹消したい」と豪語していたのを思い出し、受話器が滑り落ちそうになった。そう言っていた自分をこそ抹消してやりたいという衝動に駆られたのだ。
生きるというのは恥ずかしさの重ね塗りなのだ、としたり顔で思う今の自分もいずれ抹消したくなるに決まっている。そうでなくちゃ困る。
学校を(やっと)卒業したので、考える、という行為が生活の中心というよりは、生活の中の娯楽のようになってきた。学校にいた頃は、考えていることを形にするのが最低限の「義務」だったので、そういうわけにはいかなかった。だから、ここ一年は、自由奔放に考えるという行為を遊んでいる。考える、というよりは、あることないこと思いめぐらしているだけなのかもしれない。だからこそ、こうしてまとまった文章を書こうとすると、キーボードを叩く指の動きがいかにも頼りなげで、なかなかスラスラと動いてくれない。考えているつもりで、やっぱり、ふわふわっと思っているだけなのだろうか。無駄にならないようにと気をつけなくても考えることはできるんだ、と知っちゃったからなのかもしれない。
27歳になって驚いたことのもう一つは、20歳から26歳までのあいだの自分が、日記を書くということを手放せずにいたことだ。殆ど、とり憑かれていたと言ってもいいぐらい。我が事ながら、よくもまあ、あんなにたくさん書いたものだと思う。恥ずかしさで失神するだろうから、絶対読み返したりしないけど。