おんにっき おきがるversion
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9月23日 日曜日 とうとう、涼しくなった。 おでんも今日ならよく売れるだろうね、と話す。八月の終わりごろから、おでん屋さんがチリンチリンと鐘を鳴らしてアパートの脇を通りかかるのをいつも聞いていた。 今夜は、鍋のなかの鶏肉を、ポン酢に浸してほおばった。炊き上がったばかりのご飯は、つやつやとして明るい。 野菜の下ごしらえをしているうちから飲んでいたので、食事の始まる前から、ビールの中瓶が二本、空になっている。ほおっとくと、飲んでいる。酒なしで鍋をするのに耐えられないのか食事を目前にして、ちょっと行ってくるよ、と近所の酒屋に出かけてゆく。残されたわたしは、この秋初めての鍋の蓋をあける。湯気のなかから、鶏肉を探し出してポン酢の入ったお椀のなかに入れる。ふうふうと息を吹きかけ、ほおばる。 相撲は、今日が千秋楽だった。白鴎が優勝を決めた瞬間からつけっぱなしのテレビの前で、ぽん酢の浸みた鶏肉を存分に味わう。 そのうちに、片手にビール瓶の入ったビニール袋を提げて戻ってくる。ビニール袋からとりだして、栓を抜く。注ぐ。わたしも氷を入れたグラスに麦茶を注ぐ。互いのグラスをコツリとあてて、乾杯、という。 いちにちじゅう、寝そべってばかりいた。退屈だった。とろりと滴る眠気のような、退屈さだった。まあ、わるくはない休日だ。 |
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9月19日 水曜日 九月になってまた、小学校や中学校でニッポン語をおしえだす。 子どもたちにつられて、自分も、五十音表を初めて見つめているような気持ちになる。「ぬ」と「め」、あるいは、「ろ」と「る」を、読み違えないほうがおかしいな、と思う。 まちがいだらけの中国語を笑われながらも、出あう子出あう子、皆可愛い。 今のわたしには、小中学校の教員としてもニッポン語教師としても、正式な資格があるわけじゃないので、はたらきながら、自分はこどものとき五歳年下の妹を相手にやっていた「センセイごっこ」の続きをしているだけなんじゃ、と思うことがある。 きょうも黒板に、や、ゆ、よ、と大きく書きながら、これに気をつけてね、と精一杯センセイぶってみせる。 「しゃ」。し、のお隣にあるのはどれ? よく見てね。「しゅ」って読んだら駄目よ。「しょ」でもないよ……
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9月12日 水曜日 若かりし頃の和田アキコが涙で頬を濡らしながら《あの鐘を鳴らすのはあなた》を熱唱していた。胸がつまった。 それから一時間、テレビに釘付け。 テレビをみながら、次はまだか次の歌はまだか、と胸を弾ませるのは本当に楽しいことなのだなと思った。 ポギーあんたの時代がうらやましいぜ、と歌う沢田研二をみながら、あと十五年早く生まれていたら自分は間違いなくこのヒーローに、熱狂していたろうなと思った。ジュリーと叫んでいた。 すべて阿久悠の詩だった。 あんたの時代がうらやましいぜ、と思う。こんな歌が、特別なもの、としてではなく、そこにただあるもの、として、ただ人々を、老若男女を愉しませるためだけに、茶の間を流れていた時代がうらやましい。 そうだ。様々な歌い手と作曲家による音にのせられた阿久悠の「詩」は、ニッポン語でモノカタることの凄味と醍醐味を、突きつけてくると思った。いまこの国で、この国の言葉で、書かれつつある大半の新しい小説よりも、突きつけてくる、と思った。 日本人には生まれなかった。が、日本の茶の間で育った。いい歌をたっぷりと聴いた今日のような夜こそ、この、「美しい国」の言葉でモノカタることへの誘惑に駆られる。 |
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9月9日 日曜日 九月九日。九が重なっている。「半蔵の命日」だ。毎年この日には、「切って血の出るような物語」について思いを馳せる。するとちょうど、祭囃子がきこえてくる。 市村さんのお婆ちゃんにたすきを渡されて、町内会の御神輿に乗せてもらったのは、十一のときだった。御神輿に乗ったのは、その十一のときだけだ。ちょうどその頃、日記を付けるようになっていた。鍵付きの日記だった。御神輿に乗せてもらったことを書いた記憶はない。 (祭囃子が聞こえてくると、いてもたってもいられなくなる。地の音の鳴るのに血の踊るような気がする。) だから祭りは好きなのだと言った。迷子にならぬよう手を繋いだ。御神輿が街をとおりぬけてゆくのを追いかけた。提灯がキレイだった。 |
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9月2日 日曜日 多和田葉子の、《旅をする裸の眼》を読んでいたら、ライムをしぼって垂らしたフォーを食べたくなったのだが、読みすすめてゆくうち、あたりまえの発作のように、カトリーヌ・ドヌーブの、《インドシナ》を、観たくなった。 「仏領インドシナ」、というと、すぐに思いつくのはマグリット・デュラスなのだけど、そういえばデュラスは、18歳で年老いた、と書いていた。 「……人生のもっとも若い時代、もっとも祝福された時代を生きているうちに、時間の圧力に襲われることがときにあるものだ……」 わたしは、デュラスの小説を初めから終わりまで読み終えたことがない。《モデラート・カンタービレ》も、《北の愛人》も、《太平洋の防波堤》も、はらりはらりと捲ってみただけで、読んでいない。 《愛人》は、すぐ手の届く眼に入るところにいつも置いていて、ことあるごとに捲ってみては陶酔(うっとり)するというのに、それでも、初めから終わりまで読み終えてはいない。 |
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9月1日 土曜日 暑かった。 ちゃぷちゃぷと遊んだ。波打ち際。磯のにおい。あしのうらの砂。おひさまから肌身を守るために撫で付けたクリームのにおい。 雲のむこうで日が暮れる。 海のあとは熱いお湯。 小母ちゃんが潜って獲ったというサザエの焼いたのを醤油をたらして食べた。頬が落ちそうになった。 めをつぶれば夜だった。波の音がすぐ近くで響いていた。 眠った。 涼しくなった。 たった数日前のことが、嘘のよう。 何年か経った。 |