おんにっき おきがるversion

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2月23日 土曜日

 

わたしは

穴そのもののように

ぱくぱくと。

ことばが渦巻く渦巻く。

渦の中心は、穴。

わたしは
もつれるもつれる。

何も言うことなどなかった。懐かしい。わたしはとてもお喋りだった。

何か言わなきゃ。

どうしても言わなきゃ。
募る募る。

募るほど穴になる。

渦巻く渦巻く。

穴になる。


2月22日 金曜日


魯迅、と何も見なくても漢字で書けるようになった。
漱石、と何も見ないで書けるようになったときぐらい、嬉しい。
この頃、魯迅についてよく考える。上海にいたときは、宿舎が魯迅公園のすぐ近くだったので、ほとんど毎日散歩をしていた。歩きながら、魯迅のことを、よく思っていた。のは大嘘で、魯迅のことなんか、ほとんど考えていなかった。

上海滞在中に、魯迅旧居にも行った。学校の先生に連れられて。魯迅ったらこんなとこで執筆していたのねなどと思うと感慨深くて涙が出そうになった。のも大嘘で、特に何も思わなかった。見学のあと、どこで晩御飯食べるのかなあ、なんてことばかり考えていた。
今思えば、なんというノータリン(古い)女子大生っぷり!(今も根本は変わってないけど)。

中国語の勉強も怠けてばっかり。宿舎の部屋にこもって、何をしているのかといえば、三島由紀夫(もちろん日本語で)とか読みふけっていた。でもなんで中国でわざわざ三島を……。しかも「憂国」を……。面白かったけど!
閑話休題。

魯迅、がソラで書けるようになったのは、20世紀初頭の中国のことがこのごろ気になってしかたないからだ。竹内好の「日本とアジア」が届いた。さっそく読み出す。さっそく昂奮して寝つけない。いつものことだけど。

20世紀初頭の世界史的な大変革期を軸にすえて、中国と日本のことを考えるのはおもしろい。
「中華民国」発行の旅券を所持しつつこの日本で暮らしてきた我が身にとって、日本と中国そして台湾のことを、歴史という背景をひっくるめて考察することは、避けては通れない道なのだと思っている。
それにしても自分が、日本人――日本語を母語とする――作家による中国に関する考察を、翻訳を介さずに直接原語(日本語)で読んでいるというのは、妙に面白い。生まれた台湾でそのまま育っていたらおそらく、今とおなじ道筋を辿って、20世紀初頭の中国のことを考えるようにはならなかったと思う。

仮に自分が台湾人であると断定したら、この台湾人にとって、中国のことを考えるとき、いやおうなく日本という視点が内包されざるを得ないという……そのことの妙が他人事のように面白い。


2月20日 水曜日


とかなんとか書いていたら、今日の帰り道、むかしの同級生とすれ違った。

わたしは、エスカレーターを降りるところ。彼は、のぼるところ。

だったので、ほんとうにすれ違い。

ゆっくり口を利くことはできなかったけど、ふいに目が合ったあと、ハッとお互いに気付いた瞬間、ほぼ同時に笑顔を浮かべていた。

彼もまた、しょっちゅうわたしを笑わせてくれた人のうちの一人だったのですれ違ったあといろいろ思い出して楽しくなった。

こんなことがあったので自分は中学時代も案外楽しく過ごしてたんじゃないかなんて、普段は思わないようなことを思ってしまった。だから今夜は気分のよい(都合のわるいことを思い出さない)うちに眠ってしまおうと思う。

 


2月19日 火曜日


「55Day at PEKING」、邦題「北京の55日」を借りてきて、観ている。ニコラス・レイ監督の。

1963年のアメリカ映画だというのだが、当時の中国は、じき文革に突入する頃だった。「北京の55日」は、それより半世紀ほど昔、おなじ中国で起きた義和団事件についての映画である。

 

各国の旗があがる。各国の音楽隊が演奏する。それぞれ、わずかずつ離れた場所で。舞台は、1900年清朝末期の北京。
辮髪姿の中国人ふたりが、お椀の中身をかきこみながら、

「なんでこんなに騒々しいんだ」「みんな、叫んでいるのさ。中国が欲しい、ってね。」

と、英語で喋る(アメリカ映画なので)。

観始めてすぐに、不協和音と緊張感とが、いきなり突きつけられる。
160分もあるので、昨夜は途中でやむなく休止。

義和団を、鎮圧する連合軍。

もしかして、と思って調べてみる。

「ガイジンと比べると、日本人ってやっぱ小さいなぁ……」

中学3年生の頃、社会科の教科書に載っていたある一枚の写真をみて、同級生の男の子が呟いた。いつも面白いことを言って、わたしを笑わせてくれる子だった。わたしは、うなずいた。
15歳の頃、歴史にまったく興味がなかった。それが、何の写真なのかほとんど意識しなかった。

わたしたちは、高校受験を間近に控えていた。

中学校の校舎が、オウム真理教の南青山総本部のすぐ近くだったので、ヘリコプターの音が騒々しい時期だった。期末だったか中間だったか……社会科のテストがあった日、「きょうは、2・26事件からちょうど60年目だ」と話したりした。年号を覚えたばかりだったので。

当時は、歴史なんかより社会的事件なんかより目前に控えた高校受験が、よっぽど重大事だったはずだ。

はずだ、と書くのは、もう忘れちゃったから。

過ぎちゃえば、忘れちゃう。
どんどん忘れちゃう。

だからこそ、覚えている、というただそれだけで、そのことは現在の自分にとって重要な記憶である、という証となる。たぶん。

 

「やっぱり小さいなぁ」。

彼は、そう呟いたことを絶対、忘れている。わたしは急に、彼に会いたくなる。そして、今は便利なインターネット。やっぱり、そうだった。ちゃんと、教えてもらった。それは、義和団の「鎮圧」に出兵した列国軍隊の写真のことでよかった。日・英・米・露・独・仏・伊・墺。8人の中でいちばん背が低いのが日本の兵士だった。


「北京の55日」。続きを今から、また観る。

 


2月17日 日曜日


お婆ちゃん。皺くちゃの笑みを浮かべた婆ちゃん。

わたしは、わたしに生まれてよかったなあ、と節々で思う。
わたしは、なんとわたしなのだろう、と節々で痛む。
いつもいつも。
皺がひとつ、増えるたびに強くなるよ。
皺ってね、でも相当なことでないと、できないんだろうね。

なんということなのだろう。
皺が、ひとつでも増えるように、生きていかなくちゃね。

生きていかなくちゃ。

そしたらさ、そしたらね。

わたしも、なれるかもしれない。

自分に正直に生きたら。

生き切ったら。
なれるかもしれない。
あんなお婆ちゃんに。皺くちゃの婆ちゃんに。

なれる。
きっと、きっと。

がんばらなくっちゃね。

 


2月15日 金曜日


ほんの少し、と誘惑に負けて氷の入った炭酸飲料を、ちょびちょび、ちょびちょび……とはいえ合計で2杯も3杯も啜っていたら、翌日、血の滴り始めた体に堪える堪える……
だから今夜は、お湯を呑み、湯たんぽを抱き、タオルケットと羊毛の中にくるまる。

目は妙に冴えるのに、頭は、鈍、と冴えない。こんなときは、「物語」が欲しくなる。縦にも横にも、深く厚く、拡がりようのあるものを、一つドンと。
子どもの頃は風邪を引いて寝込むといつも、ドラえもんの大長編を録画したビデオを流してもらった。

おもいだす。鉄人兵団。海底鬼岩城。小宇宙戦争。魔界大冒険。
あたまが鈍ければ鈍いほど、からだが重ければ重いほど、軽やかに、どこまでも軽やかに冒険についての夢が拡がってゆく……

 


2月13日 水曜日


今日も、午前中は「ひらがな」伝授だチイパッパッ。


父は、旧正月のお休みの間だけ、東京にいて、今日のお昼にまた、台北に「飛んだ」。

「行った」と書くのも、「帰った」と書くのも、どこか落ち着かず、父がつかう乗り物の様子に託して、「飛んだ」。

 

祖母は、いつもあちこちばかり「飛び」まわっている父(祖母には息子)の生活が、バタバタと落ち着かず可哀想、と嘆く。


父は父で、「おばあちゃんは古い人間だから。ひとつの場所に、しっかりと根をおろすのが何よりもいいことなのだと思っているんだよ」と苦笑する。


そうは言うけれど、十数年前、まだ小さかった妹と中学生だったわたしを「バタバタ」させるのは可哀想だと思ったので、父はひとりで「バタバタ」することを選択したのだ。


祖母の息子たち(父を含めわたしの叔父たち)は、みんな、そんな生活だ。台北と東京、台北と上海、上海と南京。
行ったり帰ったり行ったり帰ったり。


そういえば叔父の息子や娘たち(わたしの従兄妹たち)は、それぞれの父親たちが行ったり来たりする際に、動詞(・・)()悩んだり(・・・・)しない(・・・)のだろう。
だって彼らにとって父親は、「台北から行って、台北に帰る。」

それでよい。

 

高校を卒業するあたりで、従兄妹たちはほとんどみんな、こぞってニッポンに来たがる。

亡くなった伯父の長男(わたしたちにとっていちばん年上の従兄)であるお兄ちゃんが東京の日本語学校に入校したのは、わたしが中学生のときだった。

(そのお兄ちゃんも、もう一児の父である。)

今年の四月には、父の末の弟である叔父の次女、わたしたちにとっていちばん年下の従妹も、東京で下宿を始める。


「ニッポンは楽しい?」

ひらがな伝授の合間にたずねれば、「まあまあ、かな」。

とニッポンで育っている真っ最中の子どもが笑っている。

 


2月11日 月曜日


銀の匙で、掬って唇に寄せる。冷え冷えとした甘味の予感。

吸い込まれてゆく、想像どおりの冷ややかな甘味が。からだの底に。

消える。

 

紙が、ヒラヒラと。宙を舞う。

王冠を、奪い取った。あとのせかいは、この仕打ち。

 

どうなる。

 


2月9日 土曜日


しんしん、しん。雪が、降って。とても、寒い、寒いはずなのに、雪を見慣れないからなのか、妙に、気が昂ぶり、寒くないような気がする。

しん、という音が、ほんとうにしてきそうだ、夜更けに。

白が、積み重なってゆく、道の上を。

窓から、たにんごとのように、見下ろしている。

けっきょく、たにんごとのように。

 


2月8日 金曜日


ぷつっと途切れて、なんにも出てこなかった。


なんにもないので出しようがない、というのではなく……

ある。

ある。

ある、から、出てこないという、例のアノ…。

昨日から今日までずっと、それは続いている。

きがるに、きがるに……言い聞かせてても、

くずれおちる。

 

言葉となることを拒まれれば、わたしはそれに従うしかない。射止めようもない。

まいった。

 


2月6日 水曜日


中国語の音に浸っていたい。でも、中国語の本を開きたくない。字、は読みたくない。どうしたことだろう。


父が、大陸や台湾で買ってきてくれた、幼児や小学生低学年向きの童話CDを、かけっぱなしにして、ラジオ代わりに聞いている。

ときどき、わかる言葉が聞こえる。ということは、ほとんど聞き取れない。

ときどき、聞き取れると、妙に嬉しい。子どもみたい。子どもは、自分が少しでも聞いたことのある言葉が聞こえてくると、喜び勇んで復唱する。子どもは、知らないことだらけなので、ひとつでも知っていたとき、すごく嬉しくなる。自分は知っている!と、おとなに向かって知らしめたくなる。

 

この頃やけに、中国語を聴いていたい。ただ、聴いていたい。

聞き取らなきゃいけない、という気持ちが消えてゆく。心地がいい。揺り籠に揺られているみたいで、心地がいい。

心地がいいなぁ、と日本語で思う。日本語で。

 

中国語の、文は、でも、読みたくない。本は開きたくない。文、となると、日本語のものばかり読んでいたい。浸っていたい。

自分が、中国語の音の洪水に身を任せたいと渇望している、と日本語で書きたい。

どうしてだろう。
かたよっている。

 


2月5日 火曜日


ふたりの女の子が喋っている。

「…でもね、

一人目の女の子は云った、

足と足を組み替えながら。

…世界の感触なんてこんなもんよ。

思春期の頃からずっと。

今更…

今更、嘆くことなんてないわ。

裏で鳴り続ける。
脈々、脈々と。殺意のリズム。

わるいのは、あなたじゃ(わたしじゃ)、もちろんない。
でも、

世界が一方的にわるいのでも、決してない。

…そうね、

二人目の女の子は云った、

頬杖つく手を替えながら。

…ただ、慣れてしまうのが、怖ろしいだけ。」

 

ふたりは、同時に云った。「怖ろしい」。

 


2月3日 日曜日


雪なんです。
それも、日曜日。

風邪っぴきなので、おもてに出るのは諦めて一日中、寝巻き姿のままでした。遊びにゆく約束もほっぽって。ハナミズ啜って。あったかいお茶を呑みました。玄米茶。寒い寒いときの、お米のにおいはやさしい。
シャーペンをくるくる廻して遊ぶのです。春はまだかまだかと思うのです。

“としをとればとるほど、好きなものも人も増えてゆく。”

そんな戯言をひとり呟いて。
何だかんだとわるくはないわね。これならば……などと思うんです。

明日からまた、おもてで頑張ろう。

 


2月2日 土曜日

 

お髭が生えてきそうな…。


ローズマリー。サルビア。ローヤルゼリー。アルテアエキス。

マドンナ・リリーのお花のエキスが、たっぷり入った乳白色のクリーム。

まっぱだかになって、全身に撫で付ける。優しいお花のちからを頂きます。

 

するりとなじんで幸福夢心地。

 

この頃のわたしときたら、怒ったり嘆いたりいきどおったり。

お髭が生えてきそうだったから。

今夜のわたしは、マドンナ・リリーに癒されながら、「ヒゲの未亡人」を聴く。